中国版『コペンハーゲン』
23日(日)に、東単にある東方先鋒小劇場で、中国国家話劇院の演劇公演『哥本哈根』を観た。マイケル・フレイン作『コペンハーゲン』の中国版。原作は、発表以来世界各国でコペンハーゲン現象を巻き起こした話題作。日本でも新国立劇場で上演されている。今回の中国版の演出は王暁鷹(←“呉”ではなく、王さんでした。呉暁江さんとごっちゃになった・・・28日訂正)。重いテーマの硬派な作品を演出することが多い演出家で、3月にはアーサー・ミラーの『るつぼ』(別名『サレムの魔女』)を演出している。
登場人物は3人。デンマーク人物理学者ニールス・ボーア、その妻にしてボーアの最良の理解者であったマルゲレーテ、そしてボーアの教え子であるドイツ人物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルク。霊魂となった彼らは死後の世界で、いつ果てるともない会話を繰り返す。二人の出会い、スキー場での出来事、ベートーベン・・・けれど話題は最後にはいつも、1941年9月、コペンハーゲンでの出来事に戻っていく。
その日、ナチスの指揮下で原子爆弾開発に係わっていたハイゼンベルクは、ある目的を持ってアメリカと通ずる恩師のもとを訪ねた。しかし二人の会談は決裂する。果たして訪問の真意は何だったのか、二人の間にどんな会話が交わされたのか、この会談の結果如何で原爆開発は阻止できたのか――その日をめぐる三人の会話は、まるで『藪の中』のように食い違い、何度再現を試みてもかみ合うことはなく、結局は袋小路に迷い込む。
観客は、死後の世界で霊魂となった本人たちによって繰り返される再現フィルムに、幾度も、幾度もつきあわされることになる。しかも彼らの会話には量子力学や不確定性原理、原子炉、ウラン、プルトニウム、核分裂、核分裂連鎖反応といった専門用語がちりばめられていて、難解極まりない。だが同時に観客は、その一見退屈な再現フィルムに、原爆開発という物理学的探求に魅せられた科学者の夢と、二人の間の友情、尊敬、功名心、競争心、そして一人の人間としての道徳心、良心、愛国心といった深遠なテーマを感じ取る。観客は、原爆開発という物理学の飛躍的進歩の裏側を知りたいという知的欲求と、謎の一日にこの師弟にどんな人間ドラマがあったのかという単純な好奇心に突き動かされて、この知的かつスリリングな「コペンハーゲンの一日」再現ドラマのスパイラルに巻き込まれていく。
日本を含む各国公演の劇評では、その後の原子爆弾開発を左右した謎の一日をめぐる知的かつスリリングな展開、と絶賛されたと聞く。しかし残念ながら、中国版『コペンハーゲン』には冗長さと安っぽいヒューマニズムしか感じられなかった。理解し合えるように見えながら、少しずつ、しかし決定的に乖離していく二人のやりとりは、本来ならば螺旋を描くようにさらに次のステージ、次のステージへと昇華されていって、観客をさらなる謎へと引きずりこんでいくはずが、この公演では単なる退屈きわまりないリフレインに堕してしまった。まあ、これは芝居の台詞が難解だったことと、私のヒアリング能力が追いついていかなかったことが要因かもしれない。だがそれを差し引いても、中国版『コペンハーゲン』にスリリングさを感じることはできず、また知的好奇心をくすぐられることもなかった。
王暁鷹の演出は、科学者の道徳心や良心、そして愛国心といったヒューマニズムにあまりにも焦点をあてすぎている。この点に触れる台詞を言う際の俳優の口調は、いかにも芝居がかった大げさなものだった。声のトーンをあげ、速度を落とし、過度に感情を込めた芝居口調と大げさな表情とが、この主題をわざとらしい大仰なものにしてしまっている。一ドイツ人としてナチスの秘密計画に係わった科学者の葛藤と忸怩たる思いばかりが強調され、この芝居が本来持っていたはずのスリリングな多重構造が希釈されてしまい、平板なものに変わってしまったのだ。
本来なら評価されるべき俳優の熱演や能弁な台詞回しも、この芝居ではマイナス要因になってしまっている。語るべきストーリーのある芝居の中では、これが見事にはまって力強い感動的な舞台になる。例えば、同じ劇場でこの作品の前に観た芝居、サルトル作『墓場なき死者』が好例だ。ナチス占領下フランスを舞台としたレジスタンス活動の烈士たちの物語は、俳優たちの熱演とがっちりとはまって、ぐいぐいと引き込まれるような力強さがあった。だが『コペンハーゲン』のような芝居では、その能弁さがかえって仇になった。役者の口からとうとうと溢れ出る台詞は、字面だけが空虚に響くばかりで、その実何も伝えてはいない。美辞麗句を連ねていたずらに文字で空間を埋めるだけで、実質的には何も述べてはいない文章と同じように。
もう一つ、この芝居には致命的な問題がある。キャスティングだ。ハイゼンベルク役の俳優がボーア役の俳優より貫禄があって、どう見ても恩師ボーアが弟子のハイゼンベルクより若く見えるのだ。しかも、ボーアの役作りがややおどけた役作りになっていて、どう考えても師弟関係には見えない。だから、ハイゼンベルクが自分の師であるボーアに切り出しにくい話題を抱えて苦悩する心のうちが、今ひとつすんなり伝わってこないのだ。ハイゼンベルク役の俳優には江守徹のような貫禄があったと書けば、私のこの違和感が通じるだろうか・・・(日本版ではボーア役=江守徹だった。)
そして、大音響の効果音とともに使われた原爆フィルムの多用も、この脚本の効果を減じた一因であったと思う。正確に数えてはいないが、4~5回は映し出されたのではないだろうか。舞台装置にしろ小道具にしろ、なんでも本物を使おうとするのは中国の演劇界の悪い癖だ。こうして本物のフィルムを見せることで、観客の想像力の空間は奪われ、削り取られていく。そして本来なら複雑に絡み合った多層構造をとっていたはずの脚本が、単なる人道主義の平板なものにヴァージョンダウンしてしまうのを助長している。
それにしても、科学者たちが「あの時お互いの陣営の核開発をやめるように進言していれば、原爆は開発されず・・・」「あの時我々の会談の結果が違っていたら、原爆はヒロシマではなくもしかしたらロンドンに・・・」と言った会話を、私は苦々しい思いで聞いた。彼らにとって「ヒロシマ」は符合でしかないが、日本人にとっては自国の歴史であり、民族の痛みでもある(と書いたところで、中国の人たちも日本の侵略を同じようにとらえているんだろうなと思ったので、記しておく)。死後の世界で何度やり直しても結局は決裂する会話は、何度でも愚かな過ちを繰り返し続ける人類の歴史のように、愛おしく、しかし滑稽で、そして哀しい。歴史にもしもは存在しないことを考えると、死後の世界で3つの霊魂が「もう一度やってみよう」「もう一度やってみよう」と必死に再現しようとしていること自体が、ナンセンスだとも感じられた。
聞き間違いかもしれないが、繰り返される再現ドラマで、最初21億と言われていた世界の人口が、何度目かでは61億に変わっていた。そう、人口が21億から61億になるほど時が経っても、科学者とその妻は再現ドラマを繰り返し、そうしてやはり会談は決裂し、望まない負の歴史が繰り返される。歴史は変わらず刻まれていく。科学の進歩や飛躍的発明といった高尚な世界も、人間の猜疑心や競争心、功名心といったどろどろした側面も、そして友情、夫婦愛や師弟愛、良心、道徳心、愛国心といった清らかな側面も、すべてを巻き込み、清流も濁流も呑み込んで、ぐるりぐるりとスパイラルを描きながら、そうして人類は歩みを続けていくのだ。
しかしこの芝居、日本版を観てみたかったなあ・・・。いっそのこと、各国版連続上演なんてしたら、面白かろうに。
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