2007年2月23日 (金)
2007年2月16日 (金)
実家に帰らせていただきます。
突然ですが、わたくし、実家に帰らせていただきます。
糸の切れた凧みたいに北京で好き勝手やっている嫁かず××ですが、
たまには父母の墓参りでもしようかな、と思いまして。
ありがたいことに、今でも弟一家があたたかく迎えてくれるので、
面の皮を厚くしていまだに「実家」と思わせてもらっています。
小学3年生と幼稚園年少さんのシッターになるのは
もう今から火を見るよりも明らかなのですが、
それはそれで楽しみだったりする叔母バカです。
期間は春節が明けて二日目の2月19日(月)~27日(火)までで、
その間、二度ほど上京するつもりです。
もしご都合があうようでしたら、遊んでやってください。
ご連絡はいつものメールアドレスかHotmailのアドレス、
またはmixiのメッセージでいただいても結構です。
ぼちぼち爆竹と花火で賑々しくなってきた北京より、
一次帰国のお知らせでした。
2007年2月 9日 (金)
よく食う女
私は大食いだ。日頃から一応それは自覚している。
水曜日の芋焼酎な夜のこと。
「ずりポン」(砂ずり=砂肝のおろしポン酢)をニコニコしながらつまんでいたら、久しぶりでお隣どうしになった常連N岡氏が真顔でこうつぶやいた。
「ayaziさんって、よく食べますよね。」
「そうなんですよ~。」
と笑顔で返事はしたものの、実は秘かに心外だった。
だって、Gzouで晩ご飯&飲みの日は、私の中では「夜食べるのを控えめにする日」と位置づけられているのだ。ご飯ものも、基本的には口にしない。そもそも、夜に中華料理屋さんに行こうものなら、こんな量ではすまないのよ。
なのに、それでも端から見れば「よく食べますよね」、なんだ~。ちょっと力が抜けた。
帰宅して同居人さんに顛末を話した上で、こう聞いてみた。
「ねえ、私ってやっぱり大食い?」
すると期間限定同居人yukidarumaさんが言うではないか。
「うん。ご飯つくってもらうと、出てくる量多いよね。」
がびーん。やっぱり、そもそもの「一回に食べる量」の初期値が大きいのね、私。
そう言えば、義妹が嫁いできてすぐの頃に
「食卓にすごい量のおかずが出て、食べきれなかったですよお」
って、言ってたなあ。
ウチの母は、父や子どもたちに「足りない」と言われることを恥と考えていたらしく、とにかく多め多めで料理をつくる人だった。そんな彼女の思いを知ってか知らずか、私たちは出されたものをガツガツと残さず食べ続けた。そうして、ayazi家の人びとの胃袋は拡張の一途を辿り、挙げ句の果てに私は「よく食う女」になった。
ところで、最初は無理をして懸命にご飯を食べていた義妹だったが、今ではすっかりayazi家の量になじんだ。この間なんて、
「時々実家に里帰りしてご飯食べると、少なすぎて足りないです・・・」
と言って笑ってたっけ。
それにしても、人より食べる量がだいぶ多いってことは重々承知ではあったけれど、自分の中で「控えめ」な量ですら、「よく食べる」範疇に入ってしまうとは!胃袋を小さくする手術でもしたほうがいいのか?(<いやいや、本気で思ってはいないですが。)
2007年1月25日 (木)
おばあちゃんの花火
昨日の午後香港から北京に飛んできたyukidarumaさんが、今日の午後日本に飛んでいった。
母方のおばあさまが亡くなり、お通夜と告別式に出るためだ。
訃報を聞いたその瞬間、yukidarumaさんは「分かった、帰るから」と、迷いのない、きっぱりとした口調で言った。
「なんで涙出てくるんだろ。おばあちゃんが死んでも泣くなんて思ってなかったのに。」
そう言いながら、ぽろぽろと涙をこぼした。焼酎の入ったグラスを握りしめ、くったりと頭をテーブルに落として、何枚も何枚もティッシュを引き抜いた。
「でも、先週帰っててよかったね。」
「うん。」
こっくりと首から折れるように頷く。彼女は、食が細くなったおばあさまのために香港から日本に帰って、一週間看護に付き添っていた。
「香港にいるときじゃなくてよかったね。」
「うん。」
おとといだったら、訃報は香港の一人暮らしのアパートで聞いたはずだった。今なら、北京時代の留学仲間3人と一緒だ。
彼女のおばあさまのこと、お世話になった大学の先生のこと、私の父や母のこと、中国駐在中に亡くなった私の同級生のこと・・・それぞれの親しかった故人について語りながらも、座は明るいままだった。
彼女の実家のあるあたりでは、告別式の後にお坊様を囲んで宴会になるという。そして酒を酌み交わし賑やかに故人をしのび、思い出話に花を咲かせるのだそうだ。
「誰かが亡くなることで、新しく誰かとつながることってあるよね。」
取材中にヘリの事故で亡くなった私の同級生は、その死によって同級生どうしを再会させ、彼の奥様と私を結びつけた。さらには香港から訃報を聞いて駆けつけたある同窓生と私を引き合わせ、それがご縁で、私は彼女の編集する雑誌でライターをさせていただいている。
「確かにそうかも。S先生の奥様となんて、S先生が亡くなってから仲良くなったもん。」
彼女の恩師は、数年前に交通事故で急に亡くなった。それがきっかけで、それまではほとんど交流のなかった奥様との親交が深まったのだという。今では、お宅に泊まりに行ったりもするそうだ。
夕べだってそうだ。彼女のおばあさまが亡くなったことで、私たちはいろんな話ができた。ふだんだったら照れてしないような、いつもは心のちょっと奥の方にしまいこんでおくような、そんな話を。
「一番心配なのはお母さんなの!」
と、実母を亡くした自分の母を思いやる人もいた。自分が意地をはったためにおばあちゃんの死に目に会えなかったと言って、泣いた人もいた。仕事をやめて介護をしていた頃のことを思い返して、忸怩たる思いを打ち明けた人もいた。
焼酎のボトルの残りが少なくなっていくのにつれて、テーブルに広げたポテトチップの山が小さくなっていくにつれて、私たちの心の距離は近くなっていった。
誰かが亡くなることで、新しく結ばれる絆がある。人はその人生の最後に、人と人とを結ぶ媒介になるのだ。人生の最後に打ち上げる、大きな大きな花火のように。
人はその生命の花火の最後の輝きで、自分に係わる人びとを明るく照らすのだ。花火に吸い寄せられて来た見物客たちは、急に客電の入ったコンサート会場の観客席に座っているみたいに、あわてふためいて周りを見回す。そして、そこにいる人の存在に改めて気づくのだ。新たに、そこで出会うのだ。
yukidarumaさん。あなたのおばあちゃんの花火は、北京でも輝いたよ。そして、私たちを明るく照らしたよ。
2007年1月18日 (木)
雪上加霜~リターンズ
「なんでないの?」
自宅のドアの前で、繰り返し、繰り返し、私はつぶやいていた。となりにいるのはS地蔵さん。一つずつ、私のバッグから荷物を取り出して、丁寧に探してくれる。しかし、やはりないものはない。
「なんでないの?」
まだ繰り返す私に、S地蔵さんは言った。
「はい、お店に帰りますよ。」
そうして私はタクシーでもと来た道を戻り、お店のベンチに横になる。
おかしい、どうしてないんだ?あれ以来お昼に持ち出すのはやめたから、会社に忘れてきたはずはない。朝だって、3回まわしてしっかり閉めて、抜いたことまでちゃんと確認した。最近鍵穴がちょっと斜めになってきていて、抜くのにちょっとコツがいるのだ。だから、抜いたことは覚えている。家を出た時は確かにちゃんと持っていた。なのに・・・。
帰りたいのに鍵がない。二度繰り返すなんてバカだ。
県人会でかなり飲み、結構できあがって焼酎バーに行き、そこでもしたたかに飲んだ。四人で並んでカウンターに腰掛けて、焼酎ついで、カンパーイ!とやったのは覚えている。でも、その後の記憶があやふやだ。気づいたら、お地蔵さん二人につれられて、家に向かう(というか、連れて行ってもらう)タクシーに乗っていた。そこから先の記憶もとぎれとぎれ。
*****
「あの日、私どんなだった?」
水曜の夜、おそるおそるお地蔵さんたちに尋ねてみる。
「入ってきた時から、だいぶ出来上がってましたよ。」
S地蔵さんが苦笑いしながら答える。うん。確かに一次会からだいぶ飛ばしてました。
「白波の瓶をこうやって持って、僕らについて、そのまま自分のにもついでましたよ。」
そう言われてみれば、そんなことをしたような記憶も。うっすらと。
「こりゃ、久しぶりにやばいな、と思いましたね。」
「来たぞー、来たぞーって感じだったよな。」
えーん。最近はよい子の3杯ペースだったのに。居残り貧乏も返上してたのに。
「お店出たの何時くらいだった?」
「そんなに遅くありませんでしたよ。2時ぐらいかな。」
「他の人は?」
「そんなに変わりませんでしたよ。ayaziさんも、服着て立ち上がってましたよ。」
「え?そうなの?」
全然覚えていない。
「二次会のお金って、Nさんが全部払ってくれたの?」
「だいたいはNさんが払って、残りを他の人で割ってましたよ。」
「え?じゃあ、私も払ったの?」
「はい。」
財布を出した覚えも、お金を払った覚えも、まったく、ない。でもよかった、払ってて。
「それで?」
「皆さん帰ってから、ここにつっぷしてました。」
T地蔵さんが、目の前のカウンターを顎で示した。
「寝ちゃったんだ・・・。」
「はい。」
破顔一笑。でも、その笑顔がイタイヨ。
「ここに戻って来てから、あそこの大型バスのとこでうずくまってましたよ。」
もちろん覚えていない。店でベンチに寝かせてもらったその時のことは、うっすら覚えている。
「タクシーの中で、S地蔵さんの肩を貸してもらって寝てたのは覚えてるけど・・・」
「高いですよ、僕の肩。」
あ、確かに。とっても気持ちよかったです。
「なで肩だから、寝やすいらしいですよ。」
はい、確かに。お代はいくらでしょう?
*****
時は戻って火曜の朝。ベンチの硬さで目が覚めた。
記憶の海からずるずると切れ端を引っ張り出して考える。えーと、鍵がなかったんだよね?でも、スペアキーが会社にあるはず。まずは会社に行かなきゃ。
ところが、朝一番出社の同僚Yさんはこの日風邪でお休み。早めに出社する他の社員は出張。残りの同僚はフレックス出社で11時にならないと出社しない。頼みの日本人の同僚にも電話がつながらない。これで、11時までは動けないことが決定。
カウンターでコーヒーを飲みながら、ひたすら時の経つのを待つ。ところがそこに、ちょっと苦手の威勢のいいお姉様がお友達を2人連れてご来店。店内に響き渡る声は、私の脳海にもよく響く。カウンターにつっぷしたいのをガマンして、なんとか持ちこたえること30分。お姉様方が去ると同時に、ふたたびカウンターにダウン。
11時。ようやく連絡がついて、同僚にキーがあるかをまず確認してもらう。
ところが、置いてあるはずの引き出しに、スペアキーが、ない。あーそっか。友達が泊まりに来たときに家に持って帰ってきて、そのままになってたんだった。忘れてた。
万事休す。
仕方ない。 解錠サービスに連絡するしかない。
店長地蔵さんに教えてもらった業者さんと連絡を取り、ふらつく足取りで自宅に戻る。
ところが、待てど暮らせど、解錠屋さんは来ない。なんと、マンションの場所が分からず、あさっての方向に行ってしまったと言う。ピリピリしながら道順を指示して電話を切り、エレベーターの電光表示を見つめながら、待つ。部屋のある階の番号を心に念じながら、待つ。待つ。待つ。待つ。
エレベーターに乗る人、下りる人。エレベーターホールにゆらゆらと立つ、血の気の引いた三十路女ひとり。不気味だ。
そうして待つこと30分近く。
「いやもう、分かりにくくて。」
と言い訳しながらやってきた解錠業者のお兄ちゃんは、「こんなもんで開くの?」というありふれたツールで、ものの数分で鍵を開けた。鍵開け代はしめて150元。
*****
「今度はお店に鍵おいといてください。」
「うん、預かっといて。」
「ぜひそうしてください。」
瞳に力を込めて、S地蔵さんが言った。
「僕らのためにも。」
はい。預けておきます。お地蔵さんたちの睡眠時間のためにも。
2007年1月 1日 (月)
2006年12月31日 (日)
2006年12月22日 (金)
居残り貧乏
飲み会、コンパ、バー・・・私はどうも、途中で先に帰るということができない。
何か面白いことがおこるような気がして帰れないのだ。先に帰ってしまって、後から愉快な展開になって、「あの後面白かったんだよ!」と言われるのが悔しくて、ついついだらだらと居残ってしまう。
もちろん、居残って楽しいことがおこることもあれば、別にどうってことないままのこともある。どちらかと言うと、特に何もおこらなくて、翌日二日酔いと睡眠不足をかかえてプチ反省することのほうが多い。
反省するくらいなら居残らなければいいし、居残るのならば反省しなければいい。
でもね、そうハッキリ割り切れるくらいさっぱりと気持ちが決まっているのなら、はなから居残ったりはしないのね。
一次会で、9時をすぎたら、10時をまわったら、日付が変わる前に、「では私はこれで。」とすがすがしく席を立つことができたら、どんなにか気持ちいいだろう。立ち際の美しい女になれたら、どんなにか颯爽としていることだろう。
でも、だめなのだ。何かおこるかも、楽しいかも、新しい展開があるかも・・・「かも、かも」に気を取られて、結局のところ、肝心のものを手に入れたり経験したりするチャンスを逸しているのかも。
そんな私は、居残り貧乏。
2006年12月 2日 (土)
師どころか誰も走らぬ師走かな
師走に入った。
日本なら今頃は街中がクリスマスムード、それが終われば年の瀬。今年ももうすぐ終わりだなあ・・・なんて、なんとなくそわそわした気分になる頃だが、こちらではまったくそんなムードはなし。
旧正月命!の中国人にとって、元旦は単なる祝日にすぎないし、クリスマスだって日本ほど盛り上がる訳ではない。
次の旧正月は2月18日で、年越しはまだまだ先の話。
「今年も押し詰まってきましたねえ。」
なんて話も、まだまだ先の話。12月は、いつもの月と変わらない普通の月で、先生どころかだーれも走ろうなんてしていないのだ。
在京日本人にとっては、年越しと言えばやっぱりお正月。年の瀬の雰囲気に浸りたいのに、なのに、街は思いっきり通常モード。例年この時期になると、肩すかしをくらったようで、なんだかつまらないような、さみしいような、どこにも気持ちを持って行きようのない所在なさを感じてしまう。
2006年10月28日 (土)
明かされる空白の数時間
「はい、ayaziさん、帰りますよ。」
先週の金曜日(というか、土曜の朝)、焼酎痛飲。気づいたら、どこかのテーブルで突っ伏して寝ていた。誰かの声に起こされて、ふらふらと店を出る。ウチの門のところまでタクシーで送ってもらい、なんとかかんとか帰宅。そのままベッドに入って爆睡。土曜日を一日棒にふった。
えーーっと、つっぷして寝ていたのは・・・「鹿港小鎮」?起こしてくれたのは、Gzouの店長?おかしいな、Gzouで飲んでたはずなのに、いつ「鹿港小鎮」に移動したんだ?誰と一緒に行ったんだっけ?全く覚えていない。タクシーで送ってくれたのは、Tっちゃんだった。ああ、私ったらタクシー代も払わなかった・・・
すっかり焼酎を飲む気持ちがどっかに行ってしまい、おとなしく殊勝に過ごした一週間。
ふたたびの週末。「すこしだけ飲める・・・かも?」と思って、久々にGzouでゆっくり。でも、さすがに先週の暴走がこたえた。やっぱりまだ量は飲めない。お湯割りと梅昆布茶を交互に飲むのがやっとだった。
「先週の金曜日、私が寝てたの、どこ?」
「国貿の金湖茶餐廳ですよ。」
「え?そうなの?鹿港小鎮だと思ってた。」
「ayaziさん、着いた途端に寝ちゃってましたよ。」
いやはや。でも、酔っぱらって変なことしたり、ゲロゲロになってるよりは良かった・・・カナ?
「金湖出たの、何時?」
「5時です。Gzou出たのが3時くらいでしたから。」
!!!!そんなに遅かったのか~。
「タクシーで送ってくれたの、Tっちゃんだよね。タクシー代も払わなくてゴメンネ。」
すると、Tっちゃんが身を乗り出してきた。
「それが!ひどかったんですよ!」
え?なになに?私、そんなひどいことした?
「ayaziさんタクシー下りたから、道の向こうまで一緒に行こうと思って僕も下りようとしてドアの方に寄ったんですよ。」
うんうん、それで?
「そしたら、ayaziさん振り向きもしないでドア閉めるもんだから、膝を打ち付けちゃいましたよ。」
ひゃあああ。私ったら、そんなことを・・・。ゴ、ゴメンネ?
「こんどからayaziさんを送っていくときは、助手席に乗ることにしますよ。」
はい、そうしてください。
「それにしても、そんなでちゃんと部屋まで帰れたんですか?」
店長が聞く。
「うん、それは大丈夫だった・・・。」
「だって、まるで糸で引っ張られるみたいにまーーーっすぐ歩ってましたよ。」
「ああ、酔っぱらっても、帰巣本能は働くんですよね。」
「部屋に引き寄せられるみたいでしたよ。」
・・・。褒められてるんだか、けなされてるんだか・・・。
「ayaziさん、カラオケ行こう!って言ってましたよ。」
ええっ?そんなこと言ってたの?
「でもだいぶ怪しかったんで、その日は行くのはやめにしたんですよ。」
理性的な判断をありがとう。行かなくて正解だったと思います。
それを横で聞いた社長が切り出した。
「よし!カラオケ行こう!」
「今日は、行っときますか!」
Gzouのみなさんも乗り気。で、お酒もあまり入らなかった今週末は、みんなでカラオケ行った。歌って、歌って、朝6時。ひさしぶりの、夜明けの鶏蛋灌餅&豆乳朝ご飯。今週末のことは、ぜーーーーんぶ、覚えてますよ。
2006年10月24日 (火)
ゾクゾクの月曜日
張り切って早めに起きた月曜の朝。なのに、なんだかカラダが重い。おまけに頭もにぶ~く痛い。それにカラダの芯がゾクゾク・・・風邪だよ。まいったなあ、もう。
ここ最近、ぐんと冷え込んだから気を付けなきゃとは思っていたのに、やっぱりやっちゃった。
なんとか気力を振り絞って身支度をしようとするも、髪をとかしては「はあ~」。ファンデーションを塗ろうとしては「ふう~」。だめだ。力が入らん。
ついに決心して会社に電話。財務担当の同僚Yさんが出ると思いきや、なんと社長自らが電話対応。びびりつつも、
「すみません、カラダの調子が悪いので、少しゆっくり行ってもいいですか?」
「いいよ~。」
はあ。ありがたや。お言葉に甘えて少し仮眠を取る。
ふと気づくと午後。おわ!やっちゃった!
うん、さっきより、だいぶいいぞ。くるくると身支度を整えて出かけようとして、ふとリビングの窓が気になった。
そういえば、やけにスースーするよな・・・
で、見てみたら、なんと1㎝くらいの隙間が・・・!鍵は閉まっているのに、この隙間はな、なに?
慌てて鍵を開け、グッグッと窓を押しつけて隙間をなくし、再び施錠。そりゃ、寒いわな。
っていうか、1㎝の隙間を残したままかかるこの鍵っていったい・・・。
2006年10月19日 (木)
ついにキレた!
ブログ開設以来、一日も途切れることなく続いてきたこの「おなかヘンテコリン」。
ついに、昨日、連続更新記録が途絶えてしまった。
ココログのメンテナンスが原因。17日の午後から、なんと48時間にも及ぶ大メンテ。仮に公開日時を指定して事前にエントリーしておいても、更新はメンテ終了とのこと。しゃーない。で、18日は更新をあきらめた。
実際には、メンテはさくさくと進み18日中にとっとと終了。ちゃんとチェックしていれば更新できたようなのだが、まあ、そこはそれ。
更新記録が途絶えて、かえってなんだかホッとした。ヤンキースの松井もこんな気持ちだったのかね~。いやいや、スケールが違いますかね。
まあ、飲み過ぎの身体にムチ打って、目をこすりこすり更新する必要もなくなって、ホッとしたのはほんとに本当。別に誰に頼まれていたワケでもないんだけどね。
これからも、なるべく毎日更新、でも無理はしないで、をモットーに続けていこっと。
2006年10月12日 (木)
朝鮮族はお月見団子を食べない
毎日同じオフィスに通う同僚(厳密にいうと同じ会社ではないんだけど、オフィスは共用している)に、朝鮮族の男性Kさんがいる。朝鮮族だからもちろんハングルがしゃべれるし、中国人だから中国語も堪能。さらには流ちょうな日本語を操る、トリリンガルだ。
中秋節は中国人にとっては家族団らんの大切な日だが、朝鮮族にとっても大きなイベントの日。旧正月と並んで重視される伝統的な祭日だ。
韓国(北朝鮮でどうかは寡聞にして知らず)では、中秋節には松餅というお団子を食べるらしい。日本のお月見団子と通ずるものがある。そんな知識を聞きかじっていたので、Kさんに聞いてみた。
「中秋節にはお団子を食べるの?」
「いえ、食べないですよ。」
「え?でも韓国では食べるんじゃないの?」
「そうかもしれないけど、よく知りません。朝鮮族はだいぶ漢化されてるから。」
「じゃあ、やっぱり月餅を食べる?」
「はい。」
そっか。ハングルを話すからって、十把一絡げにした私は短絡的だった。反省。
そう言われてみれば、Kさんが時折電話で話すハングルは、日本人に耳なじみのある韓国人のしゃべるハングルとは若干違って聞こえる。
北京で暮らす韓国人と、中国の少数民族である朝鮮族の間には、越えがたい壁があるという。韓国人は朝鮮族をバカにしているといった話すら聞く。暴力沙汰になったケースもあるらしい。
いつもにこやかで冗談を絶やさないKさん。Kさんがいると、途端に場がなごんで明るくなる。でも、そんなKさんと並んで焼酎を飲みながら、私は少し複雑な気分だった。
国籍とか民族って、ひとことで言い表すことのできない、微妙な問題なんだなあ・・・。
日本人って、こうした問題には絶望的に鈍感だ。日本でずっと暮らしていたら、こんなことを身近な問題として感じることもなかっただろうな。
そういう意味では、北京に来てよかったかも。なーんて、ちょっとまじめに考えながら、今日も焼酎片手に夜は更けたのだった。
2006年10月11日 (水)
2006年10月 8日 (日)
ドクトルN本の里山生物学教室
小涌谷温泉。いいことづくめの大満足の宿だったけど、ひとつだけ難点が。カメムシが大発生していたのだ。
「周りに葛が沢山あるんですかね?」
昔カメムシは葛につくというテレビ番組を見たことのある私。思わずこうつぶやくと、酔いどれとろとろ温泉旅行ご一行様の一員、N本さんが言った。
「いや、種類によっても違いますけどね。」
「そうなんですかあ。」
「カメムシは何年かに一度大発生することもありますね。」
むむ?N本さん、カメムシに詳しいの?
翌日の栗林散策。白い斑点のたくさんついたコガネムシのような虫を発見。
「これなんだろう?コガネムシみたいだけど?」
するとN本さんが、静かな口調ですらすらと言った。
「これはですね、ハナムグリですね。コガネムシの仲間です。」
草むらからぴょーんとバッタが飛び出した。緑色の身体で、大きさは殿様バッタくらいはある。
「これは?」
「イナゴですね。」
「ええっ?イナゴって、こんなに大きくなるんですか?」
「なりますよ。」
「N本さん、昆虫博士ですね。」
「ええ、まあ。」
草むらでカマキリ発見。実家の木瓜の木にナナフシがすみついていたのを思い出した。
「実家の木瓜の木に毎年ナナフシがすみついていて、母が毎年楽しみにしてました。」
「ナナフシという虫は不思議な虫で、何を食べているかよく分かっていないんですね。」
翌日、N本さんと里山トレッキング。私たちがガシガシと歩いていくと、ちょろちょろっと慌てて逃げていく小動物。トカゲだ。
「やたらとトカゲが多いですね。」
「日光のあたるところにいるんですよ。」
「??」
「身体が冷えてしまうので・・・」
「ああ、冷血動物だから!?」
「はい。」
冷血動物なんて言葉、久々に発した。
険しい岩場をよじ登る。黒地にオレンジの模様のついているムカデのような虫発見。
「あっ、これ、ムカデですか?」
のぞき込むN本さん。
「これは違いますね。ムカデじゃないですね。」
足先で突っつくとクルリンとダンゴムシのように丸まってしまった。
「じゃあ、ダンゴムシの仲間ですか?」
丸まったからダンゴムシ。我ながら単純。
「いや、たぶん、ゲジゲジの一種だと思いますよ。日本にはいない種類ですね。」
おー、ゲジゲジ。ゲジゲジって単語も、久々に発したぞ。
山の上のダム到着。
↑ダムからの眺め。なんにもなーーーーい!
目の前をついーっと横切る細身の青いトンボ。
「これ、なんて言うトンボですかね・・・」
「これは糸トンボですね。」
↑猫じゃらしの隣の赤い茎(ギシギシ?)にとまってます。ボケてますが。
すごいすごい!N本さん、何聞いても答えが返ってくるぞ。
「糸トンボはですね、水のきれいなところにしか住まなくて・・・」
「詳しいですね。なんでそんなにいろいろ知ってるんですか?」
「子供の頃、生物学者になりたかったんです。」
おー、納得。ほんとに昆虫博士だったんだ。これからあなたをドクトルN本と呼ぶことにしよう。
「じゃあ、一番好きな昆虫って何ですか?」
「ルリタテハなんです。普通すぎてバカにされますけど。」
「ああ・・・」
えーと、告白します。うなずいたけど、よく分かってませんでした。これがルリタテハ。
「あと、虫じゃないけどヤマメも好きですね。」
「えーと、斑点がついてるのと楕円のもようが並んでるのと、どっちがヤマメでしたっけ?」
「斑点がついてて地味な色なのがイワナで、楕円の模様がついてて赤っぱいのがヤマメです。」
自慢じゃないが、イワナとヤマメを覚えられたためしがない。どっちがどっちだかわかんなくなっちゃうのだ。でも、これでなんか覚えられた気がする。
「あとヤマメに似たので、関西にはアマゴっていうのがありますけど。」
「??」
「ある地点を境にして、ヤマメがいる地域とアマゴのいる地域がきっぱり分かれてるんです。」
「そうなんですか?」
間抜けなことに、相づちしか打てない。
「今はだいぶぐちゃぐちゃになっちゃいましたけどね。」
「どうしてですか?」
「放流したりですね・・・」
「あ、そうですね。」
またしても間抜け質問。
「ヤマメとかアマゴとかの中でも、海に行くやつもいますよ。」
「えっ?そうなんですか?」
鮭、マスだけかと思ってた。
「海に行くのは何って言うんですか?」
「サクラマスですね。」
「じゃあ、アマゴは?」
「サツキマスですね。」
わー、もうすごいすごい!
「見た目も変わるんですか?」
「模様が薄くなってほとんど目立たなくなったりしますね。後は下あごがとがってきたり。」
ほうほう。鮭の下あご、うにょーんって長い!
「どうしてとがるんですか?」
「うーん。産卵の頃になるととがるんですけどね。」
――ドクトルN本と歩く、秋の里山。生物学豆知識をたっぷり楽しんだ、プチ生物学教室。私だけの、思いがけない温泉旅行超目玉オプションなり。
2006年10月 5日 (木)
バキバキの素
筋肉痛である。
太ももとふくらはぎがバキバキで、ほとんどペンギン歩き。
酔いどれとろとろ温泉旅行だったはずなのに、2日目に張り切りすぎてしまったツケが回ってきた。若いつもりでも、やはり寄る年波には勝てない。
2日目。まずは近所を軽く散策。
栗林の向こうに見えるのは銀山塔林。仏様が臥しているお姿に見えるので、焼香のために登山する仏教徒も多いという。一番右側が頭部。そのすぐ左側のへこんだ部分が首で、そのへこんだところにちょこっと出っ張っているのがのど仏。焼香する時はこののど仏さまにお参りするそうだ。
お次は宿から車で30分の水長城。水辺の尾根沿いに万里の長城がうねうねと続く。 ↑ちと電線が邪魔ですが・・・ 弧を描いて続く幅の狭ーい通路をトコトコと渡っていく。右手はダムの放出口。こっこわっ。手すりもなんにもないよ? そしてこんな急な山道をよっこらしょっとよじ登り、 さらにはハシゴを上がると、 このような壮観な眺めが待っていた! 長城の上にもこんな急な階段が。 おかげで膝が大爆笑だ。
そして宿に帰って湖水でカヌー初体験。
まじめに漕ぐと結構力がいる。
午後はさらに山道をトレッキング。
軽いハイキングのつもりで出かけたものの、栗林をどんどこどんどこ登っていくにつれて、道はだんだん険しくなっていく。
こんなとこや、
こんなとこもウンコラショッとよじ登る。
その先のこんな野っぱらをさらに突き進み、
ようやく目的地のミニダムに到着。
宿のスタッフから、
「人が全然いませんよ。」
と言われてはいたが、えーと、水がたまっている他には確かに
なーーーーーーーーーーーーーーんにもなかった。
でも、糸トンボがついーーーっと目の前を横切ったり、
巨大な鳶?が飛び立っていくのが見えたり、
なんだかまったりのんびりな水辺の風景。
途中にはこんな秋の実りや、
わき水まであって、
久しぶりに田舎情緒をたっぷり味わった。
そして今、バキバキ。
【おまけ】
3日目の朝によじ登った栗山の上からの眺め。もやに見えるけど、これは炊煙(chui1yan1)。宿泊した宿の厨房から立ち上る炊事の煙がたなびいていた。
2006年10月 4日 (水)
小涌谷温泉でとろんとろん!
一時帰国して箱根で温泉・・・というのはウソで、行ってきたのは北京の郊外、昌平県にある温泉。ごくごく大ざっぱに説明すると、八達嶺長城のほう。だいたい。小涌谷なんていう日本の温泉地の名前がついているのは、当初は主に日本人向けの温泉宿だったから。今は中国人向けにも開放されている。
四環路から京昌高速道路を経由して1時間余り。道幅の広い幹線道路を離れ、送迎バスはくねくねと曲がる山道へと入っていく。秋の色が濃くなり始めた山肌の樹木、そそりたつ岩壁、道ばたには栗やくるみを売る地元の住人たち。なんか、温泉気分が盛り上がってきたぞ。うねうねと山道を上がること30分、小涌谷商務会所は小さなダムのほとりに建っていた。
日本の里山と言うにはちょっと険しい山々に囲まれているけれど、なかなかにひなびた田舎情緒たっぷり。でも敷地はよく整備されている。庭一面に芝生が植えられ、白樺の木にはハンモックが吊られている。
野鳥の鳴き声が北京の秋の高い空に響いていく。ホールの向こうにあるウッドデッキに出てみれば、そこにはかわいらしいダム越しに、綿々と連なる山々が見渡せる。水面に映り込んだ山の姿も美しい。
ウッドデッキにはパラソルが木陰を作る席が用意され、水面を吹く風を感じながら時を過ごせる。
ここで冷えたビールなんかググッとやったら、もう最高。
日本人向けに建てられたとあって、和室も2部屋用意されている。久しぶりの畳の香り。床の間まである。うーんと足を伸ばして、い草の香りをかぎながら寝っ転がれる幸せ!
温泉に入れば、懐かしい硫黄臭が鼻腔をくすぐる。トロリと肌にまとわりつくようなお湯。ちゃんと温泉だ!それだけでちょっと感動。浴槽も広々としている。窓が大きくとってあり、お湯につかりながら外の景色を眺めることもできる。まあ逆に、見られる可能性もあるんだが。
ただし、この温泉、混浴なのが玉に瑕。うまく時間をやりくりして男女別に入らないといけない。宿の人たちも細々気を遣ってくれるものの、心おきなく入りたければ水着着用が無難かも。
そして、この宿の何が素晴らしいって、そのホスピタリティ。何かお願いしても、決して嫌な顔一つせず、宿の使い方の説明から、お風呂の準備、道案内まで、なんでも笑顔で対応してくれる。中国にあってこのホスピタリティは特筆ものだ。
さらになんと、宿泊客はビール、コーラ、ミネラルウォーターなどがタダ!おかげで昼真っからビール三昧の3日間。ビール腹になりすぎて、飲んべえご一行様(5名+子供1名)だったのに、持ち込んだ白波6本が飲み終わらなかった。
すがすがしい空気を吸いながら、冷えたビール(しかもタダ!!)をしこたま飲み、眠くなったらハンモックやウッドデッキのチェアでうとうと。身体を動かしたくなったらカヌーを一漕ぎ、山道を散策、温泉をひとっ風呂・・・。
ああ、至福の3日間。
身体も脳みそもとろんとろんに溶けた。くた~。
2006年9月26日 (火)
時間差おはぎ
土曜日23日はお彼岸。日本にいればお墓参りに行くはずだが、なにせ北京からでは無理というもの。せめておはぎでも作ってお供えを・・・と思い思いしつつ、結局小豆も餅米も買わずじまいで23日を迎えてしまった。
相変わらずの「明日でもできることは今日やらない」不精者ぶりで、父にも母にもまったくもって申し訳ない。で、一念発起して材料(と言ってもホントに小豆と餅米だけ)を買い込み、日曜の夜から粒あん作りに着手。
レシピはネットでちょちょいと検索したら、こんなに懇切丁寧かつ簡単なのが見つかった。ふーむ、まずは小豆を煮こぼすのね。全部で3回っと。
そんなこんなで小豆をゆで始めてみたらば、これがまたいい匂い!たちまち部屋中が小豆の香りで満たされていく。豊かな実りの香りって言うんだろうか。これをかいでいるだけで、心が満腹になるようだ。穀物って、水で煮るだけでこんなにいい香りがするんだ~。考えてみれば、お米だって炊くとき、あんなに甘くていい香りがたつもんな。
3回ゆでこぼしてアクを抜き、たっぷりのお水でコトコト煮込んでいくことしばし。指で小豆がつぶれるくらいまで柔らかくなったら、ゆで汁を捨て、砂糖を加えて火を止める。この日の作業はこれで終了。一晩置いておけば、甘さが豆の芯までしみこむという仕組み。
それにしても、小豆あんに入れる砂糖の量にびっくり。250gの小豆に対して220gの砂糖。なんとこれでも甘さ控えめだと言う。ほとんど半分砂糖だ。もう気軽に和菓子なんて食べられなくなりそう・・・。
さて、翌日は餅米とうるち米を炊くところから作業スタート。普通にご飯を炊くときと同じ要領で、炊飯ジャーで炊けばOK。その間に小豆あんを仕上げる。中火で汁気を飛ばしてぼってりさせ、最後に塩で味を調えれば粒あんの完成だ。
お米が炊けたらすりこ木で少しつぶして餅状にする。うちにはすりこ木がなかったので餃子の皮用の棒で代用。適当なところまでつぶして俵形にまるめる。あんのほうも同じくらいの大きさにまるめておいて、これを手のひらに広げ、お餅を包めば出来上がり。
↑完成図。見た目はそこそこ?
途中いろいろとプチ失敗(砂糖を加える前のゆで加減が足りなかった、ゆで汁を捨てすぎた、砂糖を控えめにしすぎたなどなど・・・)はあったが、なんとか形にはなった。ま、初めてだから、まずまずの出来・・・としましょうか。
2日遅れのおはぎ。マイリトルお仏壇コーナーにお供えしてお線香をあげる。そして私もありがたく(自分で作ったんだけど)いただいた。甘さかーなーり控えめの手作りおはぎ。春のお彼岸には漉しあんにしてぼた餅も作ってみるか!
2006年9月23日 (土)
脳内補完名曲アルバム
大学の同窓生のご縁で、オーケストラコンサートのチケットをいただいた。なんと、大学卒業後にウィーンに渡って音楽の勉強をし、現在はマレーシア・クアラルンプールでオーケストラのヴィオラ奏者として活躍している。ちなみに、私の出身大学は音楽専攻ではない。卒業後に180度違う世界に飛び込み、しかもクアラルンプールで、オーケストラ奏者になり、カナダ人のヴァイオリニストのダンナ様との間にご子息まであるという。なんかこう、こういうの、グローバル(もはや死語?)って言うんだろうか?
で、行ってきました、北京音楽廳(Beijing Concert Hall)。中山公園近くの胡同(!)の中に忽然と出現するコンサートホール。
オーケストラ名はMalaysian Philharmonic Orchestra。
多国籍オーケストラというだけあって、肌の白い人、黄色い人、黒い人、髪の金色な人、黒い人、縮れ毛の人・・・本当に様々なルックスの、様々な国や民族出身の人々の集合体だった。そしてそれを反映してか、客層も西洋人、マレー華僑も混じって、なかなか観察しがいがあった。もちろん地元の中国人が主体だけれど。
今回驚いたのは、結構ドレスアップした観客が増えたこと。どんなに正式な場でも、ポロシャツ姿で出席するようなお偉いさんがいるお国柄。コンサートのドレスコードが定着するなんて想像もしたことなかったけど、意外に意識は変わりつつあるのかもしれない。
さて、今回の演目は、
・リヒャードフ: 「キキモラ」(管弦楽のための小品)
・ラフマニノフ: ピアノ協奏曲第2番
(ピアノ:ジャン=フィリップ・コラール)
・プロコフィエフ: バレエ音楽「ロミオとジュリエット」より
どれもロシア人作曲家の作品。
クラッシックコンサートを聴くなんて本当に久しぶりで、最初はちょっとはしゃいで興奮気味。ところが、二曲目のラフマニノフがいけなかった。叙情的でロマンチックなコンチェルトで、どうやらα波が大量放出されていたらしい。気づくとふっと意識が細切れになり・・・舟を漕いでしまった。
こっ、これは、いかん!遠くに去って行きかける意識をむりやり引き戻す。なんとかこの意識を保たねば・・・。
えーと、ラフマニノフって、ロシア人だよね。そういえば高校時代の同級生が好きだったよなあ。ラフマニノフってどんな人だったのかな?こんなロマンチックな曲書くくらいだから、繊細な人だったのかな。美男子だったのかな。いやでも、ロマンチックな曲書いてるからっていい男とは限らんな。ハゲのおっちゃんってこともあるな。プロコフィエフって確かハゲてたよな。
それにしても、なんかこのピアノ、こう五月雨が降ってるみたいだな。うーん、というよりは水が滔々と流れているイメージ?ああ、そう思ってみればロシアの大河が脳裏に浮かばんでもない。それから風にそよぐ大樹の葉、ロシア式建築、ビア樽のようなロシア人たちが歩く町並み・・・
てなことをつらつらと考えながらコンチェルトを聴いていて、妙な既視感にとらわれる。なんか、こういうの、あった!えーと、えーと・・・そっ、そうだ!昔NHKでやってたクラシック音楽の紹介帯番組!超有名なクラッシックの名曲を、作曲家や曲自体にまつわるエピソードを交えながら美しい映像とともに紹介しますっていうコンセプトの・・・なんかこう、思い出せそうで思い出せない。ああもどかしいったら!
と、ラフマニノフを聴きながら脳みそを絞っていたら・・・思い出しましたよ。そう、「名曲アルバム」。はあ、スッキリ。そして眠気もいつのまにかスッキリさようなら。
これに気をよくして、三曲目の『ロミオとジュリエット』も、勝手に脳内バレエと脳内シネマ開演。脳内でバレエダンサーと映画スターが大活躍。おかげで再び睡魔が襲うことはなかった。
クラッシックコンサートで意識が遠のいたら、ぜひ「脳内補完版・名曲アルバム」をお試しあれ。
*あ、ちなみにオーケストラの演奏自体は素晴らしかったのです。脳内補完が必要だったのは、ひとえに鑑賞者のレベルの問題だったのでした。
2006年9月19日 (火)
幸せの陶器瓶
最近、ちょこちょこと胡同を歩いている。胡同歩きで、街並みや人々の生活の息吹もさることながら、もっと私の心の琴線に触れるものがある。
それがこれ。
なんだかひと目で分かった人は、北京(中国)に少しでもなじみのある人だろう。
ヨーグルトだ。
今ではカップ入りのものが主流になってしまったが、私が北京に来た当初は、ヨーグルトと言えばこの瓶入りヨーグルトだった。ヨーグルトと言っても、こちらでは飲むもの。だからストローが差してある。
小売部(xiao3mai4bu4)と呼ばれる小さな売店でよく売られている。一本2元もしなかったと記憶しているが(もっと安かったか?)、この値段、実は瓶の値段込み。デポジット制になっていて、売店に瓶を返しに行くとその分だけ返してくれる。その場で飲むと言えば、初めから瓶代を差し引いた値段で売ってくれる。
この素朴な、というよりも作りの粗い陶器が実に味わい深くていい。厚ぼったくて、田舎の藁の香りでもしてきそうな、ひなびた素焼きの瓶。この瓶欲しさに、デポジットを余計に払って、そのまま寮の部屋に持って帰ったものだ。持ち帰った瓶は、ペン立てに、一輪挿しに、大活躍だった。
中央戯劇学院での留学時代。授業は午前中でおしまい。
↑留学時代に住んでいた寮の部屋。今の住人は、赤い切り絵でデコレート。
ちょっとお昼寝して、留学生友だちとよくふらふらと胡同散歩に出かけた。胡同の小売部でおじちゃんからヨーグルトを買い、二人で小売部の店先に並んでヨーグルトをちゅー。胡同の壁から視線をすーっと上げていけば、そこには抜けるような北京の青空が広がる。
「ああ、今日は締め日だったなあ・・・」
青い空を見上げてヨーグルトを飲んでいたら、ちょうどその日が、留学に来る直前まで勤めていた会社の営業締め日だったことを唐突に思い出した。お昼寝して、10歳以上も年下の留学生友だちと並んでヨーグルトを飲む日が来るなんて、毎日東京のオフィスで働いていたあの頃は思いもしなかったなあ。ああ、幸せ。
素朴であったかい陶器の瓶に入った甘酸っぱいヨーグルトを味わいながら、じんわりと午後の幸せを噛みしめる。
「ここに置いとくね!」
小売部のおじちゃんに声をかけて、友だちと寮に向かって歩き出す。そんな午後があったのも、もう10年近くも前のことになった。
↑今の陶器瓶ヨーグルトは、微笑む明星(ming2xing1:スター)の傍らに。
2006年9月14日 (木)
キスの年季
火曜日、会社からマンションに着く。と、エレベーターホールからなにやら楽しげな声が聞こえる。誰かと乗り合わせるの、気が進まないなあ・・・と思いながら近づくと、3歳くらいの中東系の男の子と中国人のシッターさんだった。大きな瞳に女性の私も嫉妬してしまうくらいの長くてカールした睫毛。夜8時。ご両親は二人でディナーにでも出かけたのだろうか。
「はい、これは“1”、これは“8”」
シッターさんが男の子に数字を教えている。実家暮らし時代、私もよく甥っ子リョッケに数字を教えて遊んでたな~。病院の公衆電話のボタンを闇雲に押すリョッケの手の動きにあわせて、
「さんっ、ごっ、ピーッ(♯)、はちっ、いちっ、ピーッ、ごっ、にっ、さんっ、ブ~(*)・・・以下、永遠に続く」
とやったものだ。おかげでリョッケは病院に来ると公衆電話を触りたがってそれはそれで面倒だったっけ。
思わずニコリとしていたら、エレベーターが着いた。一緒に乗り込むと、シッターさんが男の子に促す。
「自分で押してみる?“8”でしょ、はちー。」
男の子はいきなり全く別のボタンに手を伸ばす。
「あらあら、違いますよ。はーちー。」
シッターさんは男の子の手をとって、8階のボタンを押した。押させてあげようかな?と思いつつ、まいっかと自分で13階のボタンを押す私。すると男の子、
「はちー。」
慌ててシッターさんが
「それは“13”ですよお、もー。この子ったらなかなか覚えなくて・・・」
私も思わずクスクス。
そうこうしているうちに8階に着いた。エレベーターの下り際にシッターさんが言う。
「ほら、バイバーイって。」
すると男の子は慣れた動作で私に向かって投げキッスをよこしたのだ。思わず私もぎこちない投げキッスを返して
「バイバーイ。」
バイバイ、小さなドンファンさん。こんなに小さい頃から、あんなにこなれた投げキッスを身につけているとは。キスにも年季が入るというものだろう。数字も早く覚えられるといいね。
2006年9月12日 (火)
欲張り細巻きは語る
江戸前寿司でのこと。前回は畳が珍しいかと思って個室にしたが、今回はカウンターに席を取った。いくつか握り寿司をつまみ、もうそろそろ満腹・・・と思った頃になって、同席の友人(中国人)が言った。
「さっきの板前さん、どっか行っちゃったのかな?」
「ちょっとはずしてるだけだよ。あっ、ほら戻ってきた。」
カウンターで板前さんと話しながら食べるインタラクティブな食事スタイルを、友人はいたく気に入ったらしい。板前さんは中国人。お寿司の食べ方から、大将が日本で修行した時のことまで、中国人どうし話も弾む。私はよけいな説明の手間がはぶけてラクチンだ。戻ってきた板前さんに、友人がさっそく尋ねた。
「これは何?」
「きゅうりを細く切ったものですよ。」
私たちが陣取った席の前には、巻物の材料が並んでいた。きゅうり、かんぴょう、ゆで海老、トビッコ、稲荷寿司用のお揚げ・・・。食材が目の前に並び、板前さんがその場で調理してくれるスタイルも物珍しかったようだが、こうして直接質問できるのも、お気に入りになったようだ。
「これを海苔で巻くんです。」
「その隣にあるのも?」
「はい、そうですよ。」
「じゃあ、ここにあるきゅうりとその茶色の(かんぴょう)と海老を全部一つに巻いてもらうことはできる?」
慌てたのは私だ。お寿司屋さんのカウンターでそんなこと、頼んだことないぞ。
「そっ、そんなことできるわけないよ。」
ところが板さん、気軽にこう答えた。
「いいですよ!」
へっ?いいの?拍子抜けする私の横で、喜んだ連れはますます調子に乗る。
「じゃあその横にある魚子(yu2zi:トビッコ)も入れてよ。」
「そんなわがまま言っちゃだめだよ。」
「構いませんよ。」
へっ?いいの?またも拍子抜け。
「いいですよ、もちろん。」
隣の兄弟子らしき板さんもうなずく。そうなんだ、いいんだー。
日本人は、お寿司はこういうもの、お寿司屋さんはこういうところ、お寿司屋ではこういうふうにお寿司を食べるもの・・・こんな風に、知らず知らずのうちに縛りを作っているのかもしれない。常識にとらわれない客と、常識にとらわれない作り手。細巻きができあがるのを待ちながら、そんなことを思う。
「はい、どうぞ。」
目の前に出された細巻きは、海老、かんぴょう、きゅうりが見事に2つずつで、全部で6つ。きゅうりの細巻きには、トビッコがトッピングされていた。あら、おいしそう。二人で一つずつ3種類、仲良く分け合って食べる。楽しい欲張り細巻きだ。
ニコニコしながら食べていたら、板さんが言った。
「これ、サービスしますよ。」
えっ?ホント?
「申し訳ないですよ。」
「いえいえ、どうぞどうぞ。」
わーい!ラッキー。すると、連れが口を開いた。
「じゃあ、何かつまめるものを一つお願いするよ。」
「お酒がすすむものですね?」
「これはサービスにしないでくれよ。」
「じゃあ、ちょっと見繕ってきます。」
裏に下がっていく板さんを見送って、連れがニカッと笑ってこう言った。
「サービスしてもらったから、お返しに何か頼まなきゃな!」
ふーん。サービスしてもらったら、「ラッキー」で終わりじゃないのね。こちらの人は、こんな風に気を遣うんだ。なんだかオトナな感じ。
戻ってきた板さんが言う。
「小エビの唐揚げではいかがでしょう?」
「うん、いいね。それをもらうよ。」
出された唐揚げは、海老が新鮮なこともあって、ことのほか美味しかった。
欲張り細巻と小エビの唐揚げをめぐるやりとり。なんだか中国人の粋な一面を見たようで、気分のいい午後だった。
2006年9月11日 (月)
黄昏れて胡同
土曜の午後、美術館近くの三聯書店で本を何冊か買った。その足で、中央戯劇学院までてくてく歩く。
中戯留学時代にはよく自転車でこのあたりを走ったものだ。美術館の横に毎朝立つ市に、野菜や果物を買いにきたこともあった。帰り道に、胡同で朝ご飯をたべることも多かった。豆腐脳、油条、ワンタン・・・。友だちとよく立ち寄った餐廳、まだあるかな?
夕方5時。夕日の差す胡同には、そぞろ歩く老父婦、夕飯用なのか包子を買いに来る主婦らしき女性、店先で大声でおしゃべりするおじさんたち、道ばたではしゃぎまわる子供たち、自転車に二人乗りの恋人たち・・・と、なんだかとても賑やかだった。
胡同の中に、家庭の匂いが溢れているようだ。なんだか嬉しいような哀しいような心持ちになる。私鉄沿線の商店街を夕方歩くと、なんとも言えない懐かしい気持ちになるけど、ちょうどそんな感じ。私、ちょっとホームシックになっているのかな?
↑黄昏れているからなのか、こんな風景が心に沁みます。
時々ぶらぶらと街を歩くのは楽しい。あれ?こんなところにベジタリアン料理のお店が出来ている。あれ?こんなところに新しい四合院レストランが開店?あれ?なんだか妙に立派な幼稚園が・・・財務部幼稚園。道理で。あれ?ペットボトルの回収ステーションだ。リヤカーで集めて回るおじちゃんは、こういうところに持ってくるわけか・・・。
中戯まで30分。そんな胡同散策を楽しんだ、初秋の黄昏時。
↑板廠胡同にて。外人向けのゲストハウスなどができて、小売部に英語で看板が出てたりするけど、こんな風景もまだ残ってます。
2006年9月 9日 (土)
煙突が泣いている
金曜の朝、風の鳴く音で目が覚めた。タオルケットを顎まで引き寄せて、すっぽりくるまって寝返りを打つ。もうタオルケット一枚では肌寒い。薄手の羽毛布団を出そうか・・・でもまたすぐ暑さがぶり返すかな・・・そんなことを考えていたら、リビングに置いてある携帯電話の目覚ましが、にぎやかなサルサを奏で始めた。
飛び起きて、素足のままぺたぺたとリビングへ。ひゅうううう。リビングにも、風の鳴き声が届く。携帯電話のサルサを止めて、そのままPCのスイッチを入れる。トイレへ行く。ミネラルウォーターを一杯飲み干す。メールをチェックする。ゆっくりと覚醒していくココロとカラダ。牛乳の買いおきが切れたから、朝ご飯はシリアルじゃなくてベーグルだな。とりあえずコーヒーを淹れよう。
お湯を沸かしている間に着替えをすませ、父と母にお線香をあげる。
「お父さん、お母さん、お早うございます。今日も一日頑張ります。」
手をあわせてココロで唱えるのは、いつもきまってこのフレーズだ。変わりばえしない内容に、父も母も飽き飽きしているだろうか。本当は朝ご飯もお供えしないといけないと思いつつ、まあお仏壇は実家にあるし、ここは私が勝手にしつらえたなんちゃってお仏壇コーナーなので、お水だけで勘弁してもらっている。それに、シリアルやベーグルなんて、そもそも食べないだろうし。
さて、私の朝ご飯だ。ベーグルにオレンジマーマレードとブルーベリーのジャムをたっぷりつけてほおばりながら、CCTVのニュースチャンネルを見る。見慣れた女性キャスターが、かっちりしたスーツとヘアスタイルで、硬い口調の中国語を話し続ける。ひゅうううう。風は鳴きやまない。
食器を洗い、テレビの前にヨガマットを広げて、朝のストレッチ。ストレッチしてもほとんど汗ばまない。今日は少し厚手のものを羽織っていこう。
ひゅううう。今日はやけに風が鳴いている。ビル風だってことは分かっているけど、いったいどこがこんなに切なげな声をたてるのだろう?そう思って寝室の窓から外を眺めたら、二重窓の外側が開いていた。真夏に風を通しやすいように外側の窓だけ開けておいたのを、すっかり忘れていたのだ。道理で、やけに風の音がすると思った。
目線の先に、ポツンとそびえ立つ供熱廠(集中暖房用のお湯供給工場)の煙突。泣いていたのは、煙突だったのか。あと2ヶ月もすれば、冬場の集中暖房供給が始まって、あの煙突からも煙が立ち上るようになる。
内側の窓を開けると、冷たい朝の空気が入り込んできた。ぶるるっ。思わず肩をすくめて、外側のガラス窓をぴっちりと締め切って鍵をかけた。
カチリ。
私の中で、今年の夏が、終わった。
2006年9月 7日 (木)
娃娃菜ブーム
ん?これってカテゴリー「ポンポコリン」かも?ま、いいとして。
なぜか突然、白菜にはまっている。むやみやたらと白菜が食べたくて仕方がない。先週金曜からの白菜メニューを列記してみると・・・金曜はたっぷり白菜湯豆腐。日曜は白菜の黒酢炒め。月曜は白滝入り白菜鍋。火曜日は牛挽と白菜入り白滝ヌードル。馬並みにモリモリと白菜を食べ続ける日々。どうしちゃったのかね?私のカラダ。
↑白滝ヌードルです。途中まで食べて黒酢をプラス。さらに風味アップ!
と言っても、今マイブームになっているのは普通の白菜ではなくて、娃娃菜というミニミニサイズの白菜。娃娃は「子供、赤ちゃん、お人形」のこと。響きもかわいい。ワアワツァイ。こんな名前がついているだけあって、ほんとにちっちゃい。どれだけミニミニかと言うと、
三個並べてもDVDケースと同じくらいしかない。(ちょっと葉っぱ部分は折り曲げられているけど。)
普通の白菜は株が大きすぎて、一人暮らしではなかなか手が出せない。半分にカットされたものは鮮度が気になってこれも気が進まない。大家族なら何株も買って干しておいてもいいけれど、一人だしそんなに自炊しない私にとっては、あまり縁のない野菜だった。
娃娃菜は、そんな私にとってまさに福音。炒めものに、スープに、鍋ものに、1回1株でちょうどぴったりサイズ。株を半分に切る必要がないので、鮮度が保てるところもありがたい。それにこのパッケージ、テープで何回もはがせるようになっていて、冷蔵庫の野菜室にこのまま立てて保存すると、意外に日持ちする。ありがたや、ありがたや。一人暮らしにはとっても重宝なお助け野菜なのだ。日本で売ったらウケるかも。
肝心のお味は、白菜よりも甘みが強く、歯触りもソフト。娃娃菜というだけあって、若々しくてみずみずしい。固さも味も白菜とアンディーブの中間?(白菜とアンディーブではだいぶ振り幅が広いかな?)白菜がちょっと大味で粗野な感じだとすれば、娃娃菜は繊細ではんなりした味。タレにつけて、生でシャリシャリ食べてもおいしそう。
レストランでは、炒めて上湯(shang4tang1)仕立てにしたり、ベーコンと一緒にさっと炒めたりしたものを食べたことがある。やさしい味の野菜なので、クリーム煮なんかにしてもおいしそう。少し薄めのクリームシチュー(というかスープ)に入れても意外といけそうだ。(あ、クリームシチューで思い出したけど、冬瓜をシチューに入れるとおいしい。冬瓜が苦手でなければぜひお試しを。)
さてさて、この突然の白菜熱、いつまで続くのだろう?とりあえず冷蔵庫には買いだめした娃娃菜があと3株。次はどうやって食べようかな。
2006年9月 2日 (土)
オンジと私
ユルブリナーか周潤發か。あ、それは『王様と私』か。王子じゃなかった・・・。
と、くだらないことは置いておいて、『アルプスの少女ハイジ』である。
最近NHK BSで、『アルプスの少女ハイジ』が放映されている。私はまさに、カルピス劇場で育ったような世代。それもわりと初期のハイジ、マルコ、パトラッシュ、ラスカルあたりがドンぴしゃだ。ハイジもよく見た。山羊から直接お乳を飲むこと、藁のベッドに寝ること、白パンと黒パンを食べることが憧れだった。
朝、会社に行く仕度をしながらテレビをつけっぱなしにしている(なぜこんな時間に?まあまあ。勤務形態が若干人とずれているのです)と、懐かしさも手伝ってついつい見入ってしまう。お話はまだ、ハイジがオンジの家に来てから間もないあたり。ハイジはようやく乳搾りや指笛が吹けるようになったばかりだ。
先日は、ハイジがオンジからチーズの作り方をならうシーンがあった。なんでも自分でやりたい好奇心旺盛なハイジは、おじいさんにねだってチーズ作りをやらせてもらう。と言っても、火にかけた山羊のお乳をしゃもじでゆっくりかき回し続けるだけなんだけど。ところが、ペーターと一緒に山に入った子ヤギのユキちゃんが勝手に帰ってきてしまい、それに気をとられたハイジはチーズ作りをすっかり忘れて山に行ってしまう。無事にユキちゃんを山に返し、ご機嫌で家に戻ってきたハイジの目の前に、何かを黙々とこするオンジの姿が。山羊の乳がこびりついて、鍋が煤けてしまったのだ。
ナレーションは言う。
「おじいさんは、一言もハイジを責めませんでした。」
私には、たぶん無理だ。こういう時、子供を責めてはいけないことは分かっているのだ。でも、プンプンモードに入ってしまうと、なかなかそうもいかない。さすがに叱りつけることはないとは思うが、
「目を離すと焦げちゃうからねー。次から気をつけようねー。」
くらいは言うだろう。
しかし、オンジはそれすら言わない。彼は静かにこう言うのだ。
「ハイジに任せたおじいさんが悪かった。ハイジには小さくてまだ無理だったな。」
文字にするとちょっとイヤミに聞こえるかもしれないが、オンジはとても穏やかに、あたたかくこの言葉を口にする。そしてそれ以降は、黙々とすすをこそげ落とす作業を続けるのだ。
ハイジはこの後、家を飛び出し、風にゆれて音をたてるもみの木と“会話”をかわすうちに、自分の気持ちをちゃんと整理して(オトナじゃん!)、また家に戻る。
「お鍋きれいにするの、手伝うね。」
「そうか。」
こうしてハイジはひとつ成長するのだった・・・。
今回『アルプスの少女ハイジ』を見ていて、オンジに感情移入して見ている自分を発見して驚いた。オンジが麓の町でパンを買った帰りに、ショーウィンドーに大きなキャンディを見つけて立ち止まるシーンなんて、共感して胸がほこほこしてしまった。私も子供向けのものを見ると、ついつい「ヤーメイとリョッケに買ってあげたら喜ぶかな~」と顔がほころんでしまう。そんな私とオンジが重なったのだ。キャンディを大事そうになめるハイジを見つめるオンジのやさしい視線は、姪と甥を見つめる叔母(私)の視線と重なる。30年余りの時を経て、私の視点はハイジからオンジへ、コドモからオトナへと変わったのだ。まあ、自分がオトナになってるから当たり前なんだけど、何しろハイジ視点の記憶が長かったもので。
さて、そのオトナの視点で見てみると、ハイジはかなり扱いに困る子供だ。いたずらとか悪ガキとかいうことではなく、なんでも自分でやりたがり、負けん気も強く、強情で頑固。好奇心が強くて、なんでも自分で試してみないと気がすまない。もちろん逆に言えば、活発でいつも目をきらきらさせている、生命力にあふれた子供でもあるのだ。ただ、オトナ視点で見ると、ハイジみたいな子供はちょっと骨が折れる。
こういう子供に、「じゃあやってごらん」と言ってやらせてみること、そして口出しをせず見守ることは、思いのほか難しい。なんでこんなにキッパリ言うかというと、ウチの姪っ子ヤーメイも、こんな子供だからだ。子供に何かやらせる時には、必ずリスクを覚悟しなければならない。だって、うまくいかないし。じれったいし。その割にうまくできないとすねて泣いたりするし。正直言って、自分でやっちゃったほうがうんと早いし、ラクチンなのだ。そんな私と比べて、オンジは懐が広い。いつもやさしくハイジを見守り、導いている。ものすごい根気だ。
とは言え、そんなオンジも、自分で作った木製食器とパンを交換してもらいに村のパン屋に行って、値上げを知らされずにいてだまされたと思いこみ、カーッと瞬間湯沸かし器のように怒ってパン屋とケンカ。「もういい!パンなら下の町に行けばもっといいものが買える!」と言い放って店を出て行ってしまう。ああ、おじいさんったら。誤解なんだよなあ、もう。でも、いるいる!こんな頑固でへそ曲がりなオヤジ!一本気で、思いこんだら直情的になっちゃって、自分で引っ込みがつかなくなっちゃうのよね。オンジ、かわいい。
さて、この後ハイジは山を下り、ロッテンマイヤーさんの厳しいしつけのもとで精神のバランスを崩し、寝ぼけて夜にあたりを徘徊したりもする。ハイジという子供をどう育てたらいいのか、どうしたら好奇心の固まりと善意の泉のような子供をまっすぐ育ててやれるのか・・・これって児童教育のケーススタディじゃないか。
驚いた。『アルプスの少女ハイジ』は、実は教育論だったのだ。
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2006年8月24日 (木)
王子の未来
日本では今、ハンカチ王子の青いタオルハンカチが売れているとか。早実の悲願の初優勝から2日。クールな表情を崩さずに淡々と投球を続けた斎藤くんに、「ハンカチ王子」なるニックネームがついたと聞いて、オフィスで思わずひっくり返った。ハンカチ王子って・・・。
でも、中国にもスポーツがらみの王子がいる。それもハンカチ王子が生まれるずっと前の話だ。
ご存じの方は、もうすでに「ああ・・・」と思っていることだろう。そう、「体操王子」。ロサンゼルスオリンピック体操個人で、具志堅選手と金メダルを分け合った中国人選手、李寧のことだ。
当時、童顔で純朴そうなルックスと、それにマッチしない筋骨隆々の体格で、次々と華麗な技を披露する李寧が、私はとても好きだった。一時期、ほとんど私のアイドルだったと言ってもいい。何を隠そう、私が中国と中国語に興味を持ったきっかけが、李寧その人だった。(おー、ハズカシ。)ノートや教科書のはじっこに、李寧のイラストを描いて一人悦に入ったりしたものだった。もちろん、「李寧熱」はほどなく冷めてしまったが、こうして今私が北京にいるのは、振り返ってみれば李寧がいてこそだった。
時は流れ、97年に北京にやってきた私は、意外な形で李寧と再会する。
十数年の時を経て私の前に現れた李寧は、恰幅のいい脂ぎったおっさん顔の商売人だった。当時は童顔で可愛らしく思えたルックスも、今見れば典型的な南方中国人顔。そして、もっと私を驚かせたのは、彼が「LI NING」というスポーツブランドのトップにおさまっていたことだった。
なんでも、LI NINGは、健力宝(jian4li4bao3)というスポーツ健康飲料ブランド傘下にあるスポーツ用品ブランドなのだとか(聞きかじり)。LI NINGとは、ズバリ李寧の名前。
LI NINGの“L”を使ったロゴは、ナイキのロゴに酷似。コピーブランドとバカにしていたら、今では結構なビッグブランドに成長。オリンピックや世界クラスのスポーツ大会に出場する中国人選手のユニフォームやジャージにも、“L”のロゴが燦然と輝き、今や押しも押されぬ“民族”ブランドだ。最近はテレビCMのセンスも良くなってきて、おしゃれ度もアップ。
もう一つ、私を驚かせたのが、「体操王子(ti3cao1wang2zi)」というニックネームだった。当時は、李寧が中国で「体操王子」などという、ちとコッパズカシイ呼び名で呼ばれているとは、思いもよらなかった。何しろ、中国語も分からず、今のように気軽に中国情報が手に入るような時代ではなかったから。
体操王子――「体操界のプリンス」とでも訳せば、日本人の感性的にもしっくりくるのだろうが、「王子ッ」とキッパリ言い切っているあたり、なんともインパクト大だった。だって、日本語で王子と言えば、ズバリ、金色の長髪をカールさせ、ぴらぴらレースのお召し物を着て、白タイツを履いたいわゆる「王子様」を想像してしまう。その「王子」と、競技名の「体操」がくっついているあたりが、どうもしっくりこない所以だったのだろう。
ところが、今じゃ日本では「ハンカチ王子」だ。体操王子くらいでぐだぐだ言っている私は、今の日本語感性についていけていないってことか。
中国の体操王子は、今や国民的スポーツブランドのトップ。テレビのブラウン管に「李寧さん!」と声援を送っていた私には、いろんな意味でなかなか感慨深い。
さて、日本のハンカチ王子は、これからどんな人生を歩むのだろう。国分寺で「斎藤くーん」と手を振った乙女たちが、十数年後にどんな思いで「王子」を見つめることになるのか、楽しみだ。
*ところで、健力宝って今もあるんだろうか?88年に旅行に来た時にはずいぶん飲んだ記憶があるが、最近見かけない。今思えば、中国のスポーツドリンクのハシリだったなあ。
2006年8月21日 (月)
空間貧乏性
ゴンッ。
明け方、右半身に異常な衝撃を感じて目が覚める。朦朧とした意識を振り払うと、目の前にあったのはフローリングの床。そう、ベッドから落ちたのだ。
夢を見ていた。実家で、母と布団を並べて寝ている夢。子供の頃暮らした栃木の御料牧場官舎だった。夢の中でも寝苦しくて、寝返りを打った。そして、ベッドからそのまま転がり落ちたというワケだ。
ウチのベッドは結構高さがあって、床面からだと50~60㎝はあるだろうか。そこからゴロリンとダイブしたのだから、結構な衝撃。肩と腰をしたたかに打ち付けた。床にはいつもは毛足の長いやわらかマットが敷いてあるはずなのだが、あいにく洗濯中。夏場なので薄手のものしか着ておらず、こちらもクッションなし。青なじみ決定だ。
「ベッドから落ちた?」という自分に対するショック(こんなこと初めて)と、身体の痛みに耐えながら時計を見れば、午前5時。階下の人、ビックリして跳ね起きちゃったかな・・・。こんな時間に、天井から「ゴンッ」という超重量感のある音が聞こえたんだから、驚いても無理もない。ごめんなさーい、ごめんなさーい。心の中で謝りつつ、よろよろとベッドに戻る。
それもこれも、空間貧乏性のせい。
北京では、日本よりもたっぷりしたスペースのお部屋を借りられる。ウチも、建築面積で90平米近くと、一人暮らしとしてはかなり贅沢な間取り。ところが、長年せまーいせまーい部屋で暮らしてきたザ・日本人な私は、どうも贅沢なゆったりスペースに慣れることができない。広い広い部屋なのに、実際に使っているのはごくごく限られたスペースだけ。これが「空間貧乏性」。
夜寝る時にも、やっぱり空間貧乏性から抜け出ることができない。ウチは寝室もわりとゆったりしたスペースなので、置いてあるのはダブルベッド。なのに、真ん中にゆったり寝るとどうにも落ち着かなくて、結局いつもはじっこにちんまりと寝ているのだ。おかげで寝返った拍子に暁の50㎝ダーイブッッッッ!ああ、哀しき空間貧乏性。
それにしても、いい年した女が肩や腰に青なじみかあ・・・。空間貧乏性もいい加減返上しないと。
2006年8月13日 (日)
ツクツクボウシ
先週末、ひさびさ自炊のために近所のスーパー京客隆に出かけたら、ツクツクボウシが鳴いていた。ツクツクボウシが鳴くということは、もう夏も折り返し地点を過ぎたということ。関東ではお盆過ぎあたりから鳴き始めるけど、北京ではそれよりちょっと早めに鳴き始めるらしい。
ツクツクボウシは中国語で寒蝉(han2chan2)と言う。でも、寒蝉にはもう一つ意味があって、「季節の終わりに鳴かなくなった声の弱った蝉」だそう。うら悲しさの象徴らしい。ツクツクボウシの鳴き声を聞いて「夏も終わり」と感じる私は、あながち間違いとも言えないかな。
日本では街灯が明るすぎて、夜中なのに昼だと勘違いして鳴く蝉に哀しさを感じたものだが、こちらではまだそこまではいっていない。北京にはまだ、「暗い夜」が残っている。上海などと違って、北京の人々は夜が早い。街もそれだけ早く眠りにつく。蝉も安心して眠りにつけるのだろう。(ん?ところで蝉って寝るのかな?)ただ、これだけ建築ラッシュで、夜生活(ye4sheng1huo2=ナイトライフ)も豊富になってくると、こうこうと点る街灯やネオンサインで、北京の夜もどんどん明るくなっていくだろう。北京で夜中に蝉時雨を聞く日も近いだろうか。
夜中の蝉時雨と言えば、私が育った栃木の片田舎では、ヒグラシの大合唱がすさまじかった。夕方、少し涼しい風が吹き始める頃、その風に乗ってどこからともなく聞こえてくるカナカナカナカナ・・・という鳴き声は、なかなか風流なものだった。が、ヒグラシという生き物は、どうやら時間を目安に鳴いているのではなく、単に明るさに反応するものらしい。つまり、夕方だけではなく、明け方にも鳴くのだ。明け方4時頃、深い眠りを破られれば、いかに風流と好まれるヒグラシと言えども恨めしい。しかも、これがまた雑木林全体がヒグラシに乗っ取られたかと思うほどの大合唱。タオルケットをかぶって、なんとか再度眠りに落ちていこうと頑張ってみる私に、ヒグラシの大合唱はますます囂しく響くのだった。
そういえば、北京ではミンミンゼミやアブラゼミの声は聞くが、ヒグラシの声を聞かない。カナカナカナ・・・哀愁を帯びた切なげな鳴き声は、白黒はっきりさせないと気の済まない、良くも悪くもカラリとした大陸の心性にはしっくりこないのを、ヒグラシも知っているのだろうか・・・。
2006年8月10日 (木)
アクバルの嘆き
「うっ!」
左の頬に水しぶきがかかった。隣で手を洗っていた女性が、手の水を払ったのだ。トイレで手を洗った後に、パッパッと勢いよく手を振って水気を飛ばすこちらの女性は多い。「行儀の悪いこと・・・」と苦々しく思ってはいたが、さすがに直接被害を受けたのは初めてだ。驚愕する私を置いて、パッパ女は涼しい顔でトイレを後にする。左頬にかかった水しぶきをハンカチで押さえながら、私はあるシーンを思い出していた。
それはまだ留学生だった頃。私はあるウィグル料理レストランで、知人と食事をしていた。知人の名は艾克(Ai4ke4)。もっとも、これは漢字を当てはめた場合の名前で、彼の母語の発音に従えば、アクバル。ウルムチ出身のウィグル族の男性だ。その日はアクバルの他に、もう一人ウィグル族の男性が同席していた。
どういう流れだったかは忘れたが、話題はいつしかウルムチの学校事情になっていた。アクバルが言う。
「最近はウルムチでも漢族系の学校に入るウィグル族が増えたんだよ。」
「ふうん。なんで?」
「中国語ができると、後々いろいろと便利だからね。」
こちらでは、学校教育は基本的に普通話(pu3tong1hua4)と呼ばれる共通語、いわゆる中国語が義務づけられているが、少数民族地域となるとその限りではないようだ。漢族系の学校は、イコール普通話(中国語)で教育を受ける学校ということになるらしい。それ以外の学校に通った子供たちは、あまり普通話(中国語)ができないワケで、それは彼らの将来にとっては大きなマイナスだ。何と言っても、ここは中国で、中国の公用語は中国語なのだから。(私と中国語で会話していること自体が、なんだかちょっと皮肉ではあるけど。)
「でも、漢族系の学校に行くと、行儀が悪くなるよな。」
同席していたもう一人のウィグル族男性が口をはさむ。アクバルが眉根をよせて、頷きながら言った。
「ああ、手を洗った後勢いよく手を振ったりな。あれはいただけないよな。」
ウィグル料理をパクつきながら、私も強く頷いていた。そうそう、漢族の人は粗忽だから。それと同時に、同じ中国人であるウィグル族にとっても、漢族の行儀作法は目障りなものなのか・・・と、少し驚いたのを覚えている。少数民族にはそれぞれ伝統や習慣が脈々と受け継がれていて、そんな彼らから見ると、マジョリティである漢族のマナーは、子供たちに真似てほしくないものと映るのかと、ちょっと溜飲が下がった思いでもあった。
ところが、実はそんな単純なものではなかったのだ。真相を理解したのは、日本に帰国中のこと。答えをくれたのは『世界ウ●●ン滞在記』。ウィグル族の習慣を紹介したクイズがそのきっかけだった。――ウィグルの人々が身体の中で一番清潔だと考えて、洗った手をふくのに使う場所はどこでしょう?
答えはなんと、脇の下。彼らは手を洗った後、両手を交差させて反対側の腕の脇にはさみ、手を拭くのだという。だから、水を切るためにパッパッと勢いよく手を振ったりなど、決してしないのだ。
アクバルの嘆きは、私が思っていたよりも実はもっと深い深いレベルでの嘆きだったのだ。漢族系の学校に通い、中国語という将来の武器と、漢族の子弟との関係を手に入れるかわりに、民族固有の生活習慣を失ってしまう。アクバル自身、中国語に不自由せず、北京で大学生活を送り、外資系企業で働くエリートだ。それでも、民族の習慣を失うことなく、ウィグル族であることを大事にしている。
パッパ女の背中を目で追いながら、私も改めて心に刻む。
「私はパッパ女にはならないぞ。決してここに同化はしないぞ。」
そう、私はやっぱり日本人。どこにいても、立ち居振る舞いや仕草の美しさを失わないように。
2006年8月 5日 (土)
おやじのダンディズム
木曜の朝、ある方の訃報に接した。名前はFさんとおっしゃる。あるメーカーの東アジア地域を束ねていた方で、シンガポール在住、北京にもよく出張でいらっしゃっていた。私自身は、面識はあるもののそう親しくさせていただいたわけではない。でも我老板にとっては、「おやじ」と慕うようなかけがえのない人だった。Fさんのほうも、我老板を「~君」付けで呼び、かわいがった。二人は親子のようでもあり、兄弟のようでもあり、また師匠と弟子のようでもあった。
Fさんの死因は肺ガンだった。病院に行って検査を受けることもないまま、ほとんど治療もせずに亡くなったのだという。お子さんたちはすでに独立されていたため、シンガポールのご自宅にはFさん一人でお住まいだった。亡くなった日の夜は、交替で食事の面倒を見ていた現地支社の女性社員が用意したスイカを少し召し上がり、その後肩の痛みを訴え、マッサージをしてもらっている間に逝かれたのだと言う。
Fさんは、ご家族も含め親しい人に、病気のことを一切告げていなかった。小さなお子さんを抱えた家庭に、自分の看病をさせるのは忍びないと思ってのことだろう。心中は察するに余りある。
実のところ、昨年の暮れあたりから、腰痛など身体の不調は訴えられていた。北京にいらっしゃっても、あれほど連れ歩いていた我老板に連絡をとることも少なくなったように思う。私自身がたまにお会いすることがあっても、やはり腰痛がひどいようで、杯を重ねる機会にもほとんど恵まれなかった。最後にお会いした時は、だいぶ痩せられていて、精気がなくなっているような感じを受けた。今思えば、あの頃からかなり癌が進行してしまっていたのだろう。
我老板にとっては、Fさんの訃報は突然だった。もちろん、患われていることには気づいていただろう。ただ、こんなに急に逝ってしまわれるとは、思っていなかったに違いない。
「なぜ言ってくれなかったのか・・・」
「勝手に逝ってしまうなんてひどすぎる」
大切な人を失った哀しみと、水くささに対する憤りと、何もできなかった自分に対するもどかしさ。訃報を聞いたその夜、一晩中、男泣きに泣いたのだという。
Fさんと我老板の絆を知るすべての人々が、彼を心配した。沈黙が怖くて、夕食を囲みながら、誰もが陽気にしゃべり続けた。
「我老板さんが死ぬときは、絶対言ってくださいよお。」
「黙って死んだら許しませんからねっ!」
でも、私は思うのだ。Fさんは満足だったのではないかと。そしてFさんが満足だったのなら、それでいいのではないかと。確かに、病気のことを知らされていれば、看病をする間に、家族はゆっくりと肉親の死が近づいてくるのを受け入れることができる。親しい人にしても、ある程度の覚悟をもって「最期にひと目」会えるのかもしれない。「自分が看病をした」、「看取った」、「最期に会えた」という事実は、少なくともある程度の慰めにはなる。でも、誤解を恐れずに言えば、それは逆に、慰めにしかならないのだ。どれだけ長いこと看病しても、後悔が残らないなんてことはあり得ない。これが、私の1年8ヶ月にわたる看病生活の後の正直な気持ちだ。それに、看病する側の目的は、結局のところ「本人が心安らかに逝けるように」ということに集約されてくるはず。だとしたら、Fさんの意志が最後まで尊重されたのなら、これで、いいのだ。きっと。
流ちょうな英語を操り、中国要人との折衝も難なく片付け、北京、シンガポール、オーストラリアなど各地を飛び回っていたFさん。日本、北京、シンガポールと3種類の携帯電話を使い分け、「これ彼女」と、嬉しそうに娘さんの写真を見せてくださったFさん。新し物好きで、iPod miniを自慢げに取り出したその次の北京出張では、iPod nanoを手にますます得意げだったFさん。専用車に乗せていただけば、後部座席についたマッサージ機能をうれしそうに試させてくれたFさん。三つ揃いのスーツに身を包み、洒脱でダンディだったFさん。そして、誰にも自分の病気を打ち明けず、弱音を吐かず、やつれた姿を見せないまま逝ったFさん――それはFさん一流の、最高のダンディズムであったのだ。
ご冥福を、心よりお祈りいたします。
2006年7月27日 (木)
北京より愛をこめて
えーと、本日誕生日。
私をこの世に送り出してくれた、父と母、ご先祖さま、大切な家族である弟、義妹、姪、甥・・・そして、私をとりまくすべての皆さま、本当にありがとう。
しっかりどっしり(外見が・・・)しているように見えますが、実はけっこうあわてん坊でうっかりやで小心者です。近寄りがたくてとっつきにくいと思われているかもしれませんが、「お互いわかりあうのにけっこう時間がかかったりする」“SLOW”(キャラミル研究所のツキアイゲノム判断による)な性格なので、こりずにじっくりつきあっていただければ「徐々に味出るするめ系のコミュニケーション」ができる・・・かも?
これからも、どうぞよろしくお願いします。
皆さまの毎日が、微笑みと喜びに満ちたものでありますように。
北京より愛をこめて。
2006年7月22日 (土)
駐妻あたり
ある方から、アパレルメーカー、ワールドグループのファミリーセール招待状をいただいた。このセール、75~85%オフと、猛烈なお買い得だ。金曜朝9:30(←平日なのに?まあ、あまりカタイことは言わないでください)。同僚Mさんとともに、いざ参戦!
会場となったのは、華都飯店の多目的ホール。ロビーでMさんと待ち合わせしていると・・・いやいや、お出ましになりましたよ!駐在員妻たちが。平日の午前中に行われたファミリーセールにやって来られるのは、やはりおおかた専業主婦だろう。(一部私たちのような勤め人も含まれるが。)
はあ。いいなあ、駐妻さんは。広いマンションに住んで、家事はみんなお手伝いさんがやってくれて、中国茶に中国結びに中国書道と習い事をかけもち、駐妻どうしでランチして、出入りの業者にオーダーで服作ってもらって・・・、楽しいことばっかりの優雅な生活だ。(←怒られるかな、こういうこと書くと。もちろんそればっかりじゃないとは思うし、いろいろとご苦労もあるかもしれませんが。と一応フォローを入れておこう。)
それにしても、みなさん、メークばっちり!ヘアスタイルばっちり!コーディネートばっちり!ブランドバッグもばっちり!ザ・中国な環境の中に、気合いの入った日本人女性の軍団が現れると、「日本人の女性って、やっぱりきれいだなあ・・・」と感心。「自分ももっとちゃんとしなきゃなあ・・・」と反省。
でもやっぱり、親しいのかよそよそしいのか分からない会話には違和感を禁じ得ない。
「あっ!○○さぁ~ん!」
「あらあ、××さんもいらしてたんですかぁ~?」
あちこちで繰り広げられる、テレビドラマにでも出てくるような主婦の会話。だめだ、駐妻にはなれん。早々にリタイヤ(と、いう問題でもないが)。
セール会場に足を踏み入れれば、そこにはさらに駐妻の群れが・・・。こんなに周り中が日本人の環境って、どうにもやりにくい。人とぶつかっても、「対不起・・・」と言いかけて、あわてて「あ、スミマセン」と言い直しだ。
ハンガー吊りされた服は一枚一枚丁寧にチェック。山積みのカットソーコーナー争奪戦の人混みにも躊躇せず参戦。子供に「ママー」と言われても、「あっちで遊んでてって言ったでしょ?」人目を気にせずボトムを試着するためにスカート着用で準備万端、やる気満々。お目当てのアイテムを選んだ後は、鏡の前で試着大会、兼品評会。
「あらそれかわいいー」
「これならパーティーにも着ていけるわねー」
相手の選んだアイテムを褒める声に、軽い悔しさがにじむ。コンナノアッタノ?ワタシモホシカッタノニ。
で、私はと言えば、欲しいと思っていたアイテムをピックアップすると早々と戦意喪失。カットソーの戦場ははなから参戦の意欲なし。30分そこいらでさっさと試着を終え、とっとと会計を済ませた。戦利品は手にしたものの、なんだかグッタリ。どうやら駐在員妻にあたったらしい。
2006年7月21日 (金)
一伏餃子二伏面
例によってビルの地下食堂でランチ。エレベータ待ちしていると、同僚のYさんが言った。
「今日から一伏に入ったわよ。」
????恥ずかしながらチンプンカンプン。なんか“fu”って音が聞こえたけど、何のことやら全く分からない。私のリスニング能力はこんなにひどいのか?密かにショックを受けながら、
「どういうこと?」
と聞くと、Yさんが丁寧に説明してくれた。
「伏って言うのはね、夏の一番熱い時期のことなのよ。最初の10日間を一伏、次が二伏、最後が末伏って言うのよ。」
し、知らなかった。まだまだ知らないことばっかりだ。ふーんと思いながら食堂へ向かう。
いつも行くビル地下食堂は、定食制ではなく、好きなものをアラカルトで頼める。今日は茄子とピーマン、トマトの炒め物と、もやし炒めにしーよおっと。で、例によってご飯を半分・・・と主食コーナーに行くと、餡児餅発見。久しぶりだから餡児餅にするか・・・と、1個もらって席につく。Yさんが自分の分を取り終わってテーブルにやってきて、私と同僚Mさんが餡児餅を食べているのを見て、こう言った。
「私もそうしようと思ったけど、今晩は餃子だから。」
へっ?何で?Yさんが餃子を食べると宣言した時は、たいてい何かしら伝統と関係がある。で、聞いてみた。
「何かいわれがあるの?」
Yさん、待ってましたと口を開く。
「一伏餃子,二伏面,三伏烙餅巻鶏蛋(yi1fu2jiao3zi,er4fu2mian4,san1fu2lao4bing3juan3ji1dan4)」
おまじないみたいでしょ?
「一伏に入る日には餃子、二伏に入る日には麺、三伏に入る日には烙餅(巨大クレープです)で卵を巻いて食べるのよ。」
後で辞書で調べたら、こういうことだった。“伏”というのは“伏天(fu2tian1)”のことで、夏の最も暑い時期のことを言うのだそうだ。夏至から数えて3番目の庚(かのえ)の日以後の30日がそれにあたる。で、その30日のうち最初の10日間を“初伏(chu1fu2)”又は“頭伏(tou2fu2)”、次の10日間を“二伏(er4fu2)”又は“中伏(zhong1fu2)”、最後の10日間を“末伏(mo4fu2)”と呼ぶ。で、伏天に入ることを“入伏(ru4fu2)”とか“進伏(jin4fu2)”と言ったりもする。
食べる物が全部粉系食品であるところからして、北方、しかも北京の習慣らしい。どうして餃子→麺→烙餅+卵なのかはよく分からないが、二伏の時に麺なのは一番簡単だからだろうか。何しろ酷暑の時期。面倒くさいものは作りたくないからなあ。最後の末伏の烙餅+卵は、夏バテでおちた体力回復のために、滋養のある卵でも食えってこと?餃子はきっと、暑い季節に向けて大ごちそうを食べて家族でエイエイオーと気合いを高めるでもするのだろう。それに茹でた餃子はのどごしがよくて食べやすそうだし。(いい加減な想像・・・)
ランチに話を戻そう。Yさんの話を聞いた日本人同僚のMさんが言った。
「日本では暑い時期に鰻を食べるのよ。」
おお!そっか、伏天は日本で言う土用のようなものなのかぁ・・・しごく納得。
後でエンカルタ総合大百科で調べてみたところ、土用は年に四回あって、立春、立夏、立秋、立冬の前の18日間を言うらしい。一般的には夏の土用のことを指すんだって。陰陽五行説にのっとって一年を木火土金水に分けた結果、土に配分されたのが土用。で、その土用の18日間のうち、丑(うし)の日にウのつくものを食べて暑気払いしましょうということで、今は鰻を食べる習慣が残っている、というワケだそうだ。一説によると、鰻屋に頼まれた平賀源内さんが、バレンタインデーのメリー・チョコレートよろしく(順序が逆だが)「土用の丑の日は鰻」という広告戦略を考えたという話もあるけど、真偽のほどは知らない。
ただ、中国人でも「一伏餃子,二伏面,三伏烙餅巻鶏蛋」なんて聞いたこともないという人も多い。伏天に入った20日、どのくらいの人が餃子を食べたのかなあ・・・
2006年7月19日 (水)
黄色の行列
夕暮れが迫る頃、北京の街に現れる黄色の行列。
工事現場で働く出稼ぎ労働者たちだ。一日の仕事を終えた彼らは、班車(ban1che1:送迎バス)で飯場へと帰って行く。CBD(Central Business District)と呼ばれるビジネス街で、外国人客の集う三里屯のレストラン街で、市民の憩う朝陽公園の前で、黄色のヘルメットをかぶり、埃と泥にまみれた作業服を着て、彼らは地べたに腰を下ろし、バスを待つ。
北京の高層建築や道路の建設は、みんな外地(wai4di4:地方)から出稼ぎに来た彼らの労働力に頼っている。そんな彼らを、首都の市民は“民工” (min2gong1:出稼ぎ労働者)と呼んで蔑む。教育レベルが低い、衛生観念がない、マナーがなっていない・・・。
彼らはわずかな賃金で雇われている。それでも、そのわずかな賃金を踏み倒す雇い主も多いのだという。それを不満に思った民工たちが暴動を起こすケースもかなりあると聞く。
彼らが一日でも早く、稼いだお金を手に、故郷に向かう列車に乗り込むことができますように。飯場へと向かうバスではなく。黄色のヘルメットを脱いで。
2006年7月12日 (水)
中国の匂い
中国の匂いと聞いて、何の匂いを思い出すだろうか?
中華料理の匂い?そう、市場を通り過ぎる時、レストランの厨房前を通り過ぎるとき、一般家庭を通り過ぎる時、八角の匂いをかぐと、「ああ、中国にいるんだな」と思う。
漢方薬の匂い?そう、確かに漢方薬を煎じる匂いは、日本の生活には登場しない。
中国人の匂い?ハイ、地下鉄やバスに乗ると、汗と体臭と埃にまみれた彼らの匂いがムゥ~ンと充満していて、思わず窒息しそうになってしまう。「いったい何日前にお風呂に入ったんですか?」と問いつめたくなるほど、身体から異臭を発している方もいれば、「その洋服、何日洗ってませんか?」と聞きたくなるほど、ほとんど排泄物(はっきり言えばおしっこ)臭い服を着ている方もいる。あれは耐え難い。真剣に。
にんにくの匂い?タクシーに乗った途端に運ちゃんの口から匂う強烈なにんにく臭に、思わず窓を開けてしまう経験は多々あり。エレベータもしかり。ただようにんにく臭に、思わず周りの人を見つめ犯人捜しをしてしまう。
でも、一番私に中国を感じさせる匂いは、実はガソリンの匂いなのだ。それも、逃げ水のできるような真夏に、車からアスファルトにこぼれたガソリンの匂いだ。
たぶんこれは、私の中国原体験に関係がある。88年の夏にはじめて中国旅行に来た頃、移動手段と言えば長距離バスやミニバスが中心だった。その頃(今もだが)、バスは本当によく故障した。長距離ともなると、行程途中で車両が故障し、乗客が全員車から降ろされて道ばたで待つなんてことはざらだった。真夏、砂埃のたつようなオンボロ道の道ばたで、友達とふたり心細い思いで腰掛ける私の鼻腔に、バスのガソリンが強く匂った。
長距離バスのターミナルでも、よくこのガソリンの匂いをかいだ。時刻表もほとんどあてにならないようなルーズな運行管理の中で、とにかく自分たちの足で確認しようと、当時はまだつたなかった中国語でいろんな人に聞いて回り、あっちへウロウロ、こっちへウロウロ。そんな時にも、ギラギラと照りつける真夏の日差しの中、もわもわと蜃気楼のように立ち並んだバスの後部から、強く立ち上ってきたガソリン臭。
この匂いがすると、ああ、中国にいるんだなあ・・・と思うのだ。
2006年7月 4日 (火)
2006年7月 3日 (月)
お葬式ハイ
2日に母一周忌。佐原にある菩提寺にて、ごくごく身内だけで法要を済ませ、卒塔婆を持って墓参。お墓へと続く急な坂道の登り口で、姪が杏子を拾った。姪の差し出した手のひらにあるその果実に鼻を近づけると、甘酸っぱい香りが強く匂った。墓地の共同水道で仏花を差す金物の花器を洗う。黒のパンプスに、清冽な水のしぶきがかかった。
母が逝ったのは去年の7月4日。明け方に息をひきとった母を看取ると、弟と私は仏事の渦の中に放りこまれた。親戚への電話連絡から始まって、病院の事務手続き、葬儀屋をどこにするか、死亡診断書やら埋葬許可証についての説明と受領、入院費用の支払い、遺体の搬送、家の受け入れ態勢(具体的に言えば掃除と片付け)、死に水を取る、線香を絶やさない、通夜と告別式の日程決定、棺桶や葬儀スタイル・骨壺の決定、遺影にする写真選び、戒名の依頼・・・混乱した頭と疲労した身体にむち打って、いくつもいくつもページをめくって説明される山ほどのグレードと値段の中から、決めなければならないことは山積みだ。
そうこうしているうちに、弔問客がどんどんやってくる。通夜見舞いやらお香典やらいただいて、「痛み入ります」を繰り返す。ご近所には通夜と告別式の段取りを頼まなければならない。葬儀屋、親戚、近所の人々の「こうするのが決まりだ」とか「ああするのが普通だ」という助言は、遺族をさらなる混乱へと陥れていく。
何が何だか分からないうちに、いろんなことをエイヤッと決めて、通夜が過ぎ、告別式が終わり、遺体を荼毘に付し、骨になってしまった肉親を前に、半ば強制的に気持ちを整理して、小さな骨壺と一緒に帰宅したかと思いきや、今度は初七日、三十五日、四十九日、新盆(初盆)・・・。やらなければいけない法要がこれまた山積み。決めなきゃいけないことも山積み。
初七日は告別式の時に一緒にお経をあげてもらうとして、じゃあ納骨はいつにする?お寺さんに相談して都合を聞いて、三十五日と四十九日の法要を一緒にして、さらに納骨式も一緒にすませるっていうのはどう?なら案内の文面は?卒塔婆は誰の分を頼む?どこで精進落としする?料理はいくらの予算にする?四十九日が過ぎて忌が明けるのを待って、香典返しもしないと。じゃあ何にする?誰に何を送る?
アレモヤラナキャ!コレモヤラナキャ!ドウスル?ドウスル?
お葬式ハイ。父が逝った時も、母が逝った時も、亡くなった当日から数日間、私はハイな状態だった。連日の看病で睡眠不足にも関わらず、次から次へとやってくる仏事の準備が私に眠ることを許さず、朦朧とした神経が私をさらなるハイ状態へと導いていく。でも、一段落して振り返ってみると、このお葬式ハイがあったからこそ、肉親を失った哀しみと喪失感に満ちた数日間をなんとかやり過ごすことができたのだ。
哀しみに浸る間もなく、山積みのThings to Doを前に、遺族はお葬式ハイ状態にならざるを得ない。それはとても、うまくできた仕組み。遺族が哀しみに沈み込んでしまわないための、あたたかでやさしいしきたり。一周忌を終えて、改めてそう思う。
2006年7月 1日 (土)
うなずく女
一日重い荷物を抱えて新宿の街を歩き回り、疲れ切って入った喫茶店。ダージリンティーを頼み、クタクタになった身体を椅子に沈めた。あれを買う?これはやめとく?と、いろんな店でバラバラと買ったものを、あれをこっちに入れ、これをあっちに入れして、なんとかバッグ2つにまとめ、ふうっと息をついたその視線の先に、その女はいた。
女はつばの広い白の帽子を眉毛のところまで深くかぶり、ひざを揃えてちんまりと座っていた。革細工のバッグの中から三省堂書店のブックカバーのかかったハードカバー書籍を取りだし、目の前に掲げるようにして両手でそれを持ち、一心にページを繰っている。やわらかいスモーキーな色調のピンクのロングスカートを履き、ナチュラルメークというにはあまりにも地味な化粧を施した顔には、ほんのりと淡く紅が差してあった。
ウェートレスが女のテーブルに何か運んできた。女は顔を上げて本から視線をそらし、まっすぐにウェートレスの顔を見つめて、軽い会釈で無言の礼を言った。女の目の前に置かれたのは、抹茶ロールケーキ。女は本をテーブルに上に置き、フォークを手にとって、ケーキの左端にまっすぐに差した。そして一口分を口に運び、ゆっくりと、しかししっかりと咀嚼して、二度、三度、軽くうなずいた。ウン、ウン。そしてまたゆっくりと、でも確実にフォークを差す。1回目と同じ分だけケーキを切り取り、一口食べてモグモグと重たい咀嚼。そしてまた赤べこのように首を縦に数度小さく振った。女はそうして、抹茶ロールケーキの味を肯定し、満足と幸福を噛みしめているのだった。
うなずく女の抹茶ロールケーキへの肯定は、まるで彼女の人生への肯定であるかのようだ。ウン、ウン、ウン。マッチャロールオイシイワ、ワタシノジンセイワルクナイワ。ウン、ウン、ウン。コノケーキタノンデヨカッタワ、アタシノセンタクマチガッテナカッタワ。
うなずく女は確実なフォーク運びで抹茶ロールケーキを食べ終わり、両手でティーカップを包むようにして丁寧に持ち、紅茶を飲んだ。そうしてまた、ハードカバーの書籍を手に取り、さっきと同じように両手の上に見開きにした本を載せて、背筋を伸ばして読み始めた。つばの広い白い帽子をかぶったまま、スニーカーのつま先を揃えたまま。
私はミルクを入れたダージリンティーを飲み干し、伝票を手にして席を立った。うなずく女の前を通り過ぎる時、少しだけ、心がざわつく。それは、女の来し方に積み重ねられた無数のうなずきとこれから女が繰り返して行くだろうさらに無数のうなずきに対する感嘆と、ほんの少しの嫉妬心。私の人生は、彼女ほど、強い確信を感じさせる肯定に満ちてはいない。
2006年6月29日 (木)
焼酎バー・デビュー
てなことを書くと、GZOUのみなさんに怒られそうだけど。でもこれ、日本での話。
日本が今みたいに焼酎ブームになったのは、私が北京に移った97年以降のこと。居酒屋にチューハイはあっても、焼酎を各種取り揃えているところはそうはなかったし、ましてや「焼酎バー」なるものは聞いたこともなかった。立ち飲みバーが登場するのも、だいぶ後になってからのことだ。かなりの飲み助だった私だが、日本時代は焼酎にはほとんど縁がなかった。
それが、北京に焼酎バーGZOUができてからと言うもの、すっかり焼酎派、それも芋一辺倒、ホワイトウェーブ(by スティーブン氏。白波ね)一本槍になってしまった。たまに木挽を飲んでみることもあるが、それからしてかなり芋っぽい。
今回一時帰国するにあたって、私は一つプランを抱いていた。「日本の焼酎バーなるものを体験してみる」というのがそれ。私にとっての焼酎バーはイコールGZOU。どれどれ、本場の(?)焼酎バーがどんなものか、ひとつのぞいてみようと思い立ったという訳なのだ。
で、25日(日曜日)、同じくGZOUのカウンター友達でもあったMねえさんと、中目黒SAVOYの帰りに寄ってみた。とは言え、下調べなしの当たってくだけろ作戦。目黒川沿いなら焼酎バーの一つや二つあるだろうと、おおまかに当たりをつけてウロウロすること5分。なかなか思うような店が目につかない。ヘアサロンで「ここらへんに焼酎バーありませんか?」などとのんきな会話を交わしつつ、結局たどりついたのが、「GOOD MOON」というお店だった。
この店、正確には「焼酎バー」とは言えないのかも。どちらかというと、ダイニング・バー?でも、焼酎も結構揃えてますよ、という感じだろうか。店内にはかなり落とした間接照明、音楽はJAZZ、木目調のシンプルなインテリア。カウンターよりも一段高くしつらえた調理台で、マスター兼板さんが黙々とつまみを作っている。カウンターに陣取ると、マスターの手さばきが見えて、それもまた楽しい。
さて、せっかく日本で焼酎を飲むからには、GZOUで見かけたことのない銘柄にしよう。で、やっぱり芋がいい。でも銘柄わかんないし・・・。こういう時には店員さんに相談するに限る。
「すみません。芋っ!っていう感じの焼酎が飲みたいんですけど、オススメは何ですか?」
「芋芋しいのですね?」
おお、芋芋しい・・・って言うのか。そう、それそれ!
「はい、芋芋しいので何かありますか?」
「芋っていうのがありますけど。」
芋は、GZOUにもある。うーん。あ、その隣に純芋っていうのがあるぞ。
「あ、純芋にします。」
1杯目は純芋。ロックで1杯800円。グラスは手作りのぼってりとした厚手のガラスで、たっぷりサイズ。Mねえさんとカンパーイ!ふむ。芋芋しいっちゃ芋芋しいけど、ちょっとアルコール感が強い。Tっちゃんとかマイ老板が好きなタイプかな?
2人でSAVOYのピッツァを2枚、アンティパスト3品をたいらげ、おなかはすでにポンポコリンだったが、せっかくだからとアテも頼んでみた。たこわさびと冷やしトマト。たこわさびは普通に美味しかったのだが、冷やしトマトが感動的だった。「はい冷やしトマト」とマスターからお皿を受け取ると、土の香りのする焼きもののお皿がキーンと気持ちよく冷やしてあった。お皿には、トマト1個がいろんな切り方でスライスされて盛りつけられている。ヘタやおしりの部分まで捨てずに供されている。一口食べてみて、ヘタまで出す理由が分かった。「甘~!」Mねえさんの声が弾む。このトマト、とっても甘くて実がつまっているのだ。これだけ甘くて味が濃厚なら、確かにヘタのところも捨てずに食べたくなるというもの。
ところで、トマトの横にはさらりとした細かい顆粒が一盛り。この一品が出てきた時に、この白い顆粒を見てMねえさん、「これって砂糖かなあ・・・。」そう、中国ではトマトに砂糖をかけて食べることが多いのだ。中国の後遺症はなかなか抜けませんな。
さて、と。2杯目は何にしようかな。今度は別の店員さんに相談。
「こっちのメニューにも芋焼酎がございますよ。」
と言われて、他のメニューを一枚くるっとひっくり返すと、そこに見つけた「不二才(ぶにせ)」700円。鹿児島の焼酎で、不二才は鹿児島弁で「ぶおとこ」なんだって。本場じゃん。決定。うーん、確かに芋芋しい。えーと、ちょっとくず芋とか芋の先っぽみたいな、渋味が出てる感じ?もちろん、後ダレみたいなカスカス感ではないけど。後で調べたら、無濾過の原酒なんだそうだ。原酒の深みをくず芋とかカスとか言っている私は、まだまだ修行が足りんな・・・。
しゃべってしゃべって、2杯目もそろそろ終わり。これで帰ってもいいんだけど、Mねえさんともども気になっている銘柄がもう1種類あった。せっかくだから飲んでいこっか!で、頼んだのが青酎。900円也。これね、私好きだった。2杯目以降はチェイサーの氷水オンリーになっているMねえさんも一口味見・・・開口一番「香ばしい!」そうそう、私もそう思ったの!香ばしいのだ、この焼酎。芋くささという意味では、木挽や白波のほうが上なんだけど、この香ばしさは捨てがたい。
どこのお酒だろうと思って、マスターに聞いてみた。
「青酎って、どこのお酒なんですか?」
「青ヶ島です。」
青ヶ島?Mねえさんと顔を見合わせる。
「どこにあるんですか?」
「東京ですよ。」
「東京?」
「小笠原諸島のもっと南のほうです。」
なるほど、なんか土地が痩せてて、甘藷栽培に向いてる感じ?どうやら入手困難で、幻扱いされているみたい。この香ばしい感じは、芋本来のうまみを活かしたクラシックな味、だそうだ。
それにしても、焼酎って、ほんとにいろんな種類があるんだね。ホワイトウェーブもいいけど、もう少し冒険してみるかな。ね?GZOUのみなさん。
2006年6月28日 (水)
ゴトンの圧力
ウチには、母の忘れ形見の猫がいる。猫に「忘れ形見」を使うのもナンだが、母が飼うことに決めて、母が一番かわいがり、母に一番なついていたから、まあ子供みたいなもんだろう。母の棺にも、この猫の写真を一緒に入れた。
この猫、名前をハナと言う。従妹が以前勤めていたゴルフ場で、駐車中の車のエンジンに入り込んでいた捨て猫。どう頑張っても出してあげることができず、なんと車を分解して助け出したという、なかなかコストのかかる捨て猫だった。家に来た時にすっかり風邪を引き鼻水をたらしていたので、名前は「ハナ」。トラの入った三毛猫。メス。今年でもう11歳だっけ?とにかく結構なおばあちゃん猫だ。
ハナは抱っこが嫌いで、滅多なことでは抱かせてくれない。足下にじゃれついてくることもない。ただ、雷が鳴った時だけは、腰が抜けてしまい、抱っこしようがなでようが、なされるままになっている。ハナの雷嫌いは、子猫の頃のエンジンでの恐怖体験がトラウマになっているせいではないかと、私はふんでいる。同じく雷が大の苦手の姪ヤーメイは、ゴロゴロッと来るとすぐ「ハナ腰抜けてない?」と、ハナを雷バロメーターにしていたほどだ。
ハナはとても無口だ。滅多に鳴かない。何かしてほしいことがある時も、ふと気づくと足下にちょこんと座って私をひたすら見つめていたり、部屋のふすまの脇に前足をちょうど三つ指を立てるみたいにきっちり揃えて、ちょこんと座っていたりする。私が気づいてハナのほうに視線を向けると、口だけ開いて「息だけ鳴き」をする。声を出しても、せいぜい「ヒャッ」程度。彼女が「ニャ~ン」などと猫らしく鳴いた声はついぞ聞いたためしがない。
でも、ハナには強力な武器がある。ブラッシングをせがむ時、彼女は鳴き声で催促しない代わりに、派手な音を立てて床に寝ころぶのだ。(なぜか絶対に右肩を下にして寝ころぶ。左側が下になったことは一回もない。)結構ふくよかな彼女が、それこそ倒れ込むように床に横になると、「ゴトン!」と重たい音がする。ウチではこれを「ハナのゴトン」と呼んでいて、この音がすると、とりあえずやっていることを中断してブラッシングをしてやるのが決まり。茶碗を洗っていてゴトン。テレビを見ていてゴトン。ご飯を食べていてゴトン。すると誰かが、「あ、ハナ、ゴトンだ。“カイカイ”して欲しいの?」と言って、ブラシを手に彼女の傍らに駆けつける。
無口で控えめな彼女は、ブラッシングの快楽を享受している時も、声でその心地よさを表現したりしない。目の間、鼻筋、のど、首、耳の後ろ、背中、しっぽの付け根、気持ちいいポイントをカイカイしてあげると、前足をほんの心持ち丸める。これが彼女の気持ちいいサイン。腹ばいになっている時には、これまたほんの心持ち爪を立てて、床をカリカリと鳴らす。これだけ。でも、不思議なもので、こういう感情表現の薄い猫と暮らしていると、このささやかなサインがかえってたまらなく愛しくなってしまうのだ。
たまに「ゴトン」の音が小さくて、誰にも気づいてもらえないこともある。すると彼女は気づいてもらえるまで、ニャンとも鳴かずひたすら待っている。そして気づいてもらえると、例の口の形だけの「息だけ鳴き」で控えめに催促。時には、気づいてもらえないままで、結局はあきらめて立ち上がってしまうこともある。
夕食時に何かお裾分けが欲しい時も、彼女はそっと部屋のすみにやってきて、「三つ指立てて」お行儀よく待っている。たいていは義妹が発見して、「なにハナ、鳴けばいいのにー」と、ほんの少しだけお裾分けしてやることになる。とは言え、口のきれいなハナは、2~3口食べれば満足してすぐにふっとどこかへ消えていってしまうのだけれど。
無口で控えめな押しの弱いハナ。でも、だからこそ、彼女の数少ない感情表現「ゴトン」に、家人は絶対服従だ。ハナを見ていて思う。本当に自分の希望を通したかったら、控えめが一番有効、と。
2006年6月25日 (日)
シガミン襲来!
朝、さわやかな初夏の日差しで心地よく目覚め・・・るはずが、甥っ子リョッケ(4歳)の襲撃を受けて無理矢理起こされる。「あやちゃん起きたあーっ?」ニカーッと笑ってエネルギー満タン状態で部屋に入ってきた甥を見て、覚悟を決めた。
「リョッケ起きたの?おいで。」と言って、左側を空けてあげると、倒れ込むようにして私の横に寝ころんだ。くすぐり攻撃でキャッキャッと大騒ぎしていたら、しばらくして姪のヤーメイ(8歳)も参戦。こりゃだめだ。ゆっくり寝ようと思っていたけど、もう本格的にムリだ。「ヤーメイもおいで。」ニコニコ顔でヤーメイも私の右横に寝転がる。
すると、リョッケが私のおなかの上にごろんと寝転がり、ムギュムギュとしがみついてきた。「わー、やめてー。しがみつかないでー。」起き抜けのしがみつき攻撃はさすがにつらい。けれど払いのけても払いのけても、リョッケはまた身体の上に乗っかってくる。と言うか、払いのければ払いのけるほど、おもしろがってやめようとしない。
しょうがないから、こちらも調子をあわせる。「あー、新しいポケット・モンスターだ!しがみつき攻撃が得意のシガミンだ!」「シガミン?」リョッケが嬉しそうに食いついてきた。「シガミン!シガミン!」横でヤーメイもシガミン連呼。「変身すると何に進化するの?」ヤーメイに聞いてみた。「うーんとね、シガシガ!」「も1回進化したら?」「もう1回進化したらあ、ミンミン!」
昼間、シガミンに鉄砲のおもちゃで殺され続けること30分、お店屋さんごっこで亀と猫のぬいぐるみを売ること30分、プラレールの貨物列車修理係になること1時間・・・。トイレに入ってまで、「あやちゃんどこーお?」嬉しいことは嬉しいけれど、正直勘弁してほしい。
夜、テレビ洋画劇場の『ロード・オブ・ザ・リング(旅の仲間)』を一家で見る。座椅子に腰掛けて、膝の上にシガミンを乗っけたまま映画に見入っていてふと気づいたら、シガミンは私の右足にしがみついたまま、すやすやと寝息を立てていた。こうして私の実家の日々は、シガミンと共に過ぎていく。
↑新モンスター“シガミン”
2006年6月24日 (土)
緑したたる国
23日、朝9時過ぎの便で日本へ。もしかしたら富士山が見えるかと思っていつも窓際の席をお願いするのだけれど、あいにく今日は眼下に雲が広がっていて雄姿を拝めず。でも、機体が高度を下げていくと、見慣れた長く直線に伸びる海岸線が見えてきた。九十九里だ。海岸線に白い波頭が光る。砂浜の向こうには松林、その向こうには水田が広がっている。
北京から成田へ向かう便は、松尾町あたりから芝山不動尊の上を通って成田に着陸するコースをとることが多い。山武市に住む私は、成田空港近辺はなじみが深い。上記のコースを通って着陸する場合だと、よく車で通りすぎるローソンとサンクスが眼下にはっきり確認できて、なかなか楽しい。だが、この日のコースは、利根川を越えて茨城県上空に入り、大きく左に旋回して再び利根川を渡り、成田市街側から全日空ホテルなど空港近くのホテル群をかすめて滑走路に入るというもの。
上空から眺める日本は、水と緑の国だ。点在する河や湖沼。水田の稲の緑、雑木林の緑、ゴルフ場の芝生の緑。あまりのみずみずしさに、まるで自分の目までしっとりと潤っていくようだ。着陸後、滑走する機体から眺めた滑走路の脇には、雑草の緑の絨毯に点々と咲くシロツメクサの白が映えて、思わず顔面から肩にかけての筋肉がほっとゆるんだ。
車で迎えに来てくれた義妹、姪、甥と空港で再会。甥と姪に挟まれて後部座席に座る。賑やかな車内から外を眺めれば、道路脇の栗の木に花が咲いていた。穂を重たげに垂らし、むせるように濃厚な栗の花のにおいが鼻腔に迫ってくる。畑には里芋が植えられ、トウモロコシの実が茶色のひげを垂らし、スイカが蔓を地にはわせ、ジャガイモは栄養をすべて地中に残して葉と茎を枯らしていた。家々の庭先には、紫陽花が咲いている。
自宅に着く。庭先に赤紫のオシロイバナ。母が植えた桃の木は、また丈が伸びた。まだかまだかと実をつけるのを楽しみにしたまま逝ってしまった母。桃栗三年柿八年。この桃の木も、植えてからもう3年になる。そろそろ実を結ぶ頃かなあ。山椒の木には若芽が吹き出し、茗荷も茂った。玄関を入ると、昨日我が家の畑で収穫したというジャガイモが段ボール箱にごろんごろんと詰め込まれていた。
食卓には、初夏の恵みが揃った。ふきの煮物、ゆでトウモロコシ、そしてスイカ。義妹が煮た、我が家のふき。今年はこれで三度目の収穫だという。トウモロコシはゴールドラッシュという品種。味来(みらい)よりも歯ごたえがあり、さらに甘~い。スイカは従妹からのもらいもの。まだまだ旬には遠い北京のスイカよりも、甘みが豊かだ。
小さな子供のいる我が家の夕食は早い。6時にはもう食卓を囲む。夏至前、夕食時分になっても、まだ午後の光があふれる。賑やかに囲む食卓に、鶯の声が聞こえてくる。ここに住むようになって、鶯は春先だけでなく、夏まで鳴き続けるのだと初めて知った。
緑したたる国、日本。ここはやっぱり私の祖国。
2006年6月22日 (木)
英語失語症
もともと英語が堪能だったわけではないが、中国語をやり始めてからというもの、英語レベルの低下が激しい。英語と中国語のレベルが反比例。私の頭の中では、もはや完全に「外国語=中国語」だ。英語の入り込む余地はない。
ただ、中国語学習者にはそういう人が多いらしく、いろいろと「出洋相」(chu1yang2xiang4:恥をかく)な例に事欠かない。
▽英語で話しかけれらて、“yes”と言うつもりが、“対”(dui4)。
これまだ序の口。
▽英語で何か聞かれて、“Wo don’t know”。
“Wo”は中国語の“我”で、言うまでもなく“I”が正しい。
▽たばこを吸おうとして、“Do you mind wo chou yan?”。
後半中国語になってるし。(“wo chou yan”は“我抽煙”)。
▽挙げ句の果てに、何かできるかを聞こうとして、“Can bu can・・・?”。
えーと、「~できる」の意味の“能”を疑問形にする時につかう“能不能”(neng2 bu neng2)の文法に“can”はめ込んだだけですな。しかも、“can”の発音、有気音、そして声調が二声になってますから!
なんで突然こんなことを書いているかと言うと、火曜の晩、GZOUで英語でしゃべらナイトな羽目に陥ったから。北京で開店しているとは言え、“非常日本”な焼酎バーに、なぜか通ってくるイングリッシュ・スピーカーがいる。オランダ×オーストラリア・ダブルのおじさま、スティーブン。中国生活も長いのに、ほとんど中国語を話さない(話せないんじゃなくて、学ぶ気はなっからなし)。一方の私、中国語は話せるが、英語は重度の失語症だ。で、今までさりげなくス氏を避けてきたのだが、最近どうも目をつけられてなんやかやと話しかけられる。
火曜の晩もしかり。ス氏がかなり手加減してくれていることもあって聞く方はなんとかなるのだが、話すとなるとてんでさっぱり。まるで脳みそにマニキュアでも塗ったかのように、言いたい思いが密封されて言葉になって出てこない。おまけに油断するとすぐ、「ホントに?」が“真的?”(zhen1de)になる。おっといけない訂正だ。“Really?”――疲れる。
この日の話題はなぜかZEN禅。なんでもオランダ人で日本の禅寺で長いこと修行した人が禅文化について書いた本があるとかで、熱心にすすめられた。で、ス氏曰く、
「禅僧は禅寺で10年も20年もかけて“何も考えない”境地を目指す。」
はいそうですね。で?
「彼らは一つの命題を思索し続ける」
はて、どんな命題?
「片手だけで手を叩くにはどうするか?」
「片手で手を叩く?」
「そう。」
「・・・。」
私が両手をみつめて手を叩く仕草をしていると、カウンターにいたSさんが、自分の右手と隣にいたバイト嬢ヤックルの右手でパンッ!するとス氏。
「オー!禅僧は10年もかけて考えるのに。彼はとてもスペシャルだ!」
絶賛だ。あんなに素直にうれしそうなス氏、初めて見た。
英語オンリーのス氏がなぜこんなディープな日本人バーに足繁く通ってくるかというと、北京で日本人どうしがこぢんまりと集まるスポットがとても珍しいようで、好奇心がかきたてられるんだそうだ。「インターナショナル」なス氏にとっては、どこにいっても「ベリー・ジャバニーズ」な日本人はかなり興味深いらしい。えーと、あなたとはあまりお話しないけど、中国人とはおつきあいがあるし、外国人とも中国語で話してるよ。
それにしても、ス氏の日本人評は結構キビシイ。日本人はインターナショナルじゃない。ヨーロッパでは子供は小さいときから各国を旅して回るから国際感覚がある。どうして日本人はそうしないのか。Beijingみたいなインターナショナルな都市にいるのに、日本人どうしで集まるばかりで、どうしていろんな国の人とつきあわないんだ。オランダでは自国内ではオランダ語だけど、一歩外国へ行けばオランダ人どうしでも英語でしゃべる。日本人はなぜそうしない・・・。
――英語苦手だからじゃん!(もちろん他にもいろいろ理由はあるだろうけどね。)
ただ、英語ができたら話せる人がもっと増えることは間違いない。いい機会だから(あ、ス氏とどうこうということではなく)、英語ブラッシュアップ計画も発動しようかな。・・・ブラッシュアップするベースもないか。
2006年6月20日 (火)
GZOUへようこそ!
私の北京生活のオアシス、焼酎バーGZOU(地蔵)。はっきり言って、通いつめている。
ある日、「夜王にはまっちゃって・・・」と言ったら、鬼コーチ兼GZOUのカリスマ(?)スタッフSさんが言った。「ウチもやろうかと思って練習したんですよ。」何を?するとSさん、右手を45度に掲げ、「地蔵へようこそ!」そして胸元に手を戻して言った。「観音様!」
言うまでもなく、ドラマ『夜王』の「ロミオへようこそ!ジュリエット!」のパクリ。店名が「GZOU」(=地蔵)だから、「観音様」かあ。ウケたけど、キビシイかもね。他の候補には「菩薩様」もあったらしいけど、地蔵自体も菩薩様なのでこれは却下。それで「地蔵へようこそ!観音様!」ま、いっか。そっかー!私は観音様なのね。悪い気持ちはしない。
ここに行けば、あったかく迎えてもらえて、話相手になってもらえて、愚痴も聞いてもらえて、カウンター常連客どうしで話もできて、おばんざいも食べられて、お酒も飲める。大きな体躯でニコッと破顔一笑してくれたり、クールな中にも細やかな心遣いをしてくれたり、キツイ口調の中にもぬぐいがたい暖かさを醸し出すスタッフが、私を迎えてくれる。叔母バカをさらけ出し酔いに任せて間抜けなことを言っても、肩を抱いてフォローしてくれる心優しいスタッフがいる。毒舌の中にも、実は人間好きな側面がにじみ出すスタッフがいる。
で、気がついた。私にとってのGZOUは、ホストクラブみたいなもの?
・・・そう思ってみれば、確かにそうかも。私はGZOUで、とても楽しい気分をもらっている。私にとってのGZOUは、ロミオなのかな?私も「遼介」に癒されているのかな。ただ、私はそんなに「太い客」ではないけどね。
↑観音様たち
2006年6月 5日 (月)
バジリコを買ってみた
土曜日、自宅近くの花市場で、バジリコの鉢植えを買った。一鉢10元。うちに、イタリアがやってきた。
私は、イタリア料理が大好き。それも、ナポリなどの南イタリア料理。海鮮と、野菜と、トマトと、オリーブオイルが織りなす、素朴で優しい料理。ピッツァだって、ミラノのパリパリしたものよりも、コルニチョーネ(縁のところ)がぷっくりとふくれて、もちもちしたナポリのピッツァの大ファンだ。
私をナポリピッツァの世界に誘ったのは、中目黒にあるピッツェリア、「SAVOY」。スイングジャズとフィアットとスヌーピーをこよなく愛するオーナー兼ピッツァヨーロの柿沼さんは、私の中の男前ランキングNo.1。初めてお店に行った10数年前から、一日も休むことなく、毎日、毎日、ピッツァを焼き続けている。
↑上はマルゲリータ。下がマリナーラ。基本的には、この2種類しか焼きません。
絶対に、日々研鑽を積み、改良に改良を重ねているはずなのに、「あれ?今日はいつもと少し違いますね」と言うと、「同じですよ」とさりげなく言い切る柿沼さん。でも、一年に1度か2度しか行けない私にも、そっとカンパリやグラッパをサービスしてくれる。
サービスが悪いとか、店が狭いとか、いろいろ言われているけれど、ピッツェリアは言わば日本で言うラーメン屋のようなもの。無愛想で当然。それに、柿沼さんがどんなにピッツァに心を注ぎ込んでいるかを分かっていれば、いいえ、本当に食いしん坊でウマイもの好きであれば、この店で出されたピッツァを目の前にずっとおしゃべりなんて、絶対にできないはず。絶対に!運ばれてきたら即、会話も中断して、ピッツァに集中!
中目黒、SAVOY。私の、幸せの宿る場所。
2006年6月 2日 (金)
宵の蛙
一日ひとりで気のふさぐようなことを考えて過ごしたこのあいだの日曜、なんだか心に暗い闇を抱えてしまったようで耐えきれず、11時過ぎてからバーに行った。ほんの1~2杯だけ飲んで、少しバーテンさんとしゃべって、帰ってこよう。
自宅からテクテク歩いて15分弱。割れガラスのような素材のドアを押して店内に入ると、ちょっとジャジーな味付けのサルサが耳に飛び込んでくる。カウンターで、二人のバーテンダー、たまたま居合わせた常連客一人と、たわいもない会話。
「日本では今お笑いは何が流行ってるんすか?長州小力とか、まだいけてますか?」
「日本は最近訳の分からない動機の事件が多いよね。こっちの事件は動機がはっきりしててわかりやすいよね。」
「日本帰ったらスーパー行きまくりですよ。しかも夕方値段が下がってから。」
「コンビニ行くとデザートがすごいよね。マンゴープリンの食べ比べとかしちゃいますよ。」
「日本は水道水も飲めるからね。上海の水はまずいし、北京の水ずっと飲んでると結石できるらしいですよ。」
・・・
1時間半で、「今日はこれで帰ります」と店を出た。ジントニックとマティーニを1杯ずつ。しめて90元。
明るい道を選んで歩いて帰る。ポケットに手をつっこんで、てくてく。てくてく。亮馬河にさしかかった時、何か耳なじみのある音を聞いたような気がして、立ち止まった。ゲロゲロ、ゲロゲロ。カエルの鳴き声だ。
北京の街中で、運河の名残のよどんだ水たまりで、こんな夜中にカエルが鳴いている。夕暮れの田園風景が、眼前によみがえる。日本はもう田植えが済んで、夕方にはカエルの大合唱の時期だろうか?ふっと、肩の力が抜けた。
宵のかわずに癒される。サルサのリズムにも、バーの間接照明にも、おしゃべりにも、アルコールにも消し去れなかった心の暗闇は、宵のかわずが消してくれた。
そうだ、セブン・イレブンで牛乳を買って帰ろう。陳列棚には牛乳パックが3つ。日付は26日、26日、28日。迷わず28日のものを手に取り、レジへ。3.2元。袋ももらわず、そのまま手で持って帰った。明日の朝はカフェオレにしよう――ダイジョウブ。この感覚があれば、私はちゃんと生きていける。
2006年5月29日 (月)
生きたことの証
掃除したり洗濯したり料理したり体操したりしながら、『夜王』のDVDを観た。ドラマの舞台になったホストクラブ「Romeo」の出資者、そして主人公遼介(松岡くん)の精神的パトロンだったデザイナー麗美(かたせ梨乃)が、がんで死ぬ前のセリフが、心にひっかかって離れない――「生きた証を残したい」
母が亡くなってから、もうすぐ1年がたつ。毎日ただ飲んだくれているように思われるかも知れないが、私は日々母を想って暮らしている。昨年からつけはじめた10年日記。去年の欄には、もうすぐ母の最後の入院日の記述が現れる。病状が悪化して病院に泊まり込み始めてからの日記には、走り書きしたメモ用紙が貼り付けられている。そのページが、だんだん近づいてくる。
父も、そして母も、病院で看取った。弟も私も、死に目に会うことができた。夜中に爪を切ると親の死に目に会えない――迷信だと分かっていても、守ってきたおかげかなと、実は今でも思っている。(マニキュア嫌いで長い爪嫌いの私は、今でも爪切り派だ。)母が亡くなってから、夜中でも気にせず爪を切るようになった。深夜にパチンパチンと響く爪切りの音を聞くたびに、もう父も母もいないのだと改めて思う。
父の最後の呼吸も、母の最後の呼吸も、私は今でもはっきりと覚えている。吸ったまま決してその息を吐き出すことはなかったのだから、呼吸とは言えないけれど。彼らが私の記憶から消えることはない。他でもないこの私自身が、二人がこの世に生きたことの証だから。
子供を産んでいない私は、子孫という証をまだこの世に残していない。私が両親を決して忘れないように、私のことをいつまでも記憶に留めて、想い続けてくれる人はいるだろうか?クリエイターでもないから、作品という証も残らない。私が残せる私の生きたことの証って、何だろう。
↑ベランダに出たら、きれいな夕日でした。
2006年5月27日 (土)
傘がない
北京では珍しく、二日続けて雨が降った。乾燥しきって干上がりそうだった北京の街にとっては、まさに恵みの雨。通勤がてらウォーキングした大使館の街路樹はむせかえるような緑だった。ニセアカシア(?)の花粉の匂いが、湿った空気に充満して、濃密な初夏の気配を感じさせる。湿り気は、匂いをより強く立ち上らせる。日本では、栗の花粉が鼻をつく時節だろうか。それとも、松の花粉が道ばたに筋を描く頃だろうか。
北京にいると、傘を持つ習慣がなくなってしまう。ほとんど雨が降らないからだ。だから、今回のようなまとまった降雨があると、あわてて傘を持ち出すことになる。でも、傘を持たないで外出する人も多い。たとえば私の勤める会社の社長。残業を終えて会社を出た社長は、傘も持たずにタクシーを拾いに行った。私がさしかけた傘にも「平気だから」と言って。
北京の街に雨が降る。乾いた空気に覆われた、砂嵐の舞う北の街がしっとりと潤いのベールに包まれる。淡い黄緑色から、一段と鮮やかさを増した濃い緑色の木の葉が、したたるようにみずみずしい。大使館街の道路脇にそびえる銀杏や楊樹から、緑色の雪崩が降りかかってくるようだ。
降水に弱い都会の街には、たちまち水が溢れる。配水管に流れ去ることもなく、道路に水たまりをつくる初夏の雨。天気予報をチェックしていたのに、それでもサンダルを履いてきた愚かな私の足のつま先には、たちまち水がしみこんでくる。空車タクシーを探して、久しぶりの傘を肩にかついで、水たまりをあっちに除け、こっちに除け。日本はもう梅雨入りしたのかな。しっとりと、雨が心も濡らしていく。
2006年5月22日 (月)
中文カラオケ計画
土曜日の昼12時。オフィスのあるビルでタクシーを降りた。休日出勤?いやいや。「中国語カラオケ3時間歌いまくり計画」実行のため。このビルの地下1階~3階には、銭櫃(qian2gui4)、英語だとキャッシュボックスという名前の台湾系カラオケボックスが入っている。が、毎日毎日このビルに通いながら、なかなかカラオケに来る機会がない。この日はGZOUのバイト嬢Kちゃんの大学卒業試験合格を口実に、Kちゃん、同僚Mさん、私の3人で昼間っから歌いにやってきた。
銭櫃は昼の時間帯の値段設定が安い。1時間貸し切りで150元程度。しかーし!もっと安いプランもあるのだ。「軽松唱」(qing1song1chang4)というプランだと、2時間歌い放題で1人52元。しかもKちゃんが気の利くことに学生証を持ってきてくれたので、さらに割り引かれて45元!それになんと、無料でバイキング料理まで食べられるのだ。
銭櫃では実は日本語の歌もあるのだが、なんてったって今回は「中国語カラオケ3時間歌いまくり計画」。3人とも中文モードやる気満々だ。まずは、周傑倫(JAY・チョウ)の「七里香」でスタート。さらに、王力宏(ワン・リーホン)、林俊傑(リン・ジュンジエ)、陳奕迅(イーソン・チャン)、蔡依林(ジョリン・ツァイ)、林依蓮(サンディ・ラム)、陶喆(デヴィット・タオ)、張信哲(ジェフ・チャン)、任賢斉(リッチー・レン)、劉若英(レネ・リュウ)・・・。12時すぎから歌い始めてたっぷり3時間。その合間にバイキングでチャーハンやら各種炒め物やらビーフンやらを取ってきて、パクパク。クッキーやゼリーもパクパク。ふー、満足。3時間でしめて150元。なんと、一人50元ぽっきり!
ところで、日本のカラオケ映像は、よく分からない俳優がベタな設定で芝居して、最後に「ロケ地 福岡」とかなんとかなるのが常だが、こっちのカラオケ映像は基本的にMTV。単にMTV鑑賞としても楽しめる。「七里香」のMTVでは、ヒメジオン(ハルジオン?)の中で歌うJAYを鑑賞。「霍元甲」では、おでこ全開、扇子片手に踊りも頑張るJAY君の姿に、「頑張ってるじゃん」と拍手。(しかし、霍霍霍霍霍霍霍霍・・・と続く歌詞はなかなかのインパクトだ。Huohuohuohuo・・・)「麦芽糖」では、グループサウンズヘアに「いけてないけどカワイー!」「暗号」では、携帯電話に貼られたラブリーシールにひっくり返り、「キツー、これー。」「簡単愛」では、「うわ、若っ!」「一路向北」では、鈴木杏ちゃんを見送った後もう泣いちゃいそうなへの字口に、「泣け!泣け!泣いたー。かわいー。」王力宏の「大城小愛」では、「リーホンって、別所哲哉に似てない?でもこっちのが断然カワイイけど。」「似てるー!」・・・楽しすぎ。
しかも嬉しいことに、「原唱」(yuan2chang4)と言って、歌手本人の声を聞けるモードがあるので、全然歌ったことないけどとにかく聴きたいという場合もOK。自信を持って歌える部分にきたら、ちょっと大きな声で歌えば、「導唱」(dao3chang4)モードに自動的に切り替わり、歌手の声が聞こえなくなる。歌手本人の声と一緒にデュエットしたければ、微妙にマイクから口を離して、自分の声があまり大きくならないようにすればいい。「導唱」モードに切り替わるギリギリのラインを狙う訳だ。これね、クセになりますよ。
それにしても、JAYのMTVには日本で撮影したものが多い。「簡単愛」、「七里香」、「一路向北」(これは映画映像だからちょっと違うか)、「忍者」などなど。特に「七里香」は、海外在住日本人的にはかなり、来る。靄に包まれた田園風景、稲の切り株だけが残る田んぼ、農家らしい瓦屋根の日本家屋、人気のない公園のブランコ、お寺(?)の軒先、ハルジオン(ヒメジオン?)の咲く野原。群馬で撮影したとのことだが、面白いもので、日本の風景って、映った途端すぐ分かるんだよね。やっぱり、画面の佇まいというか、風景の匂いが違う。なんかこう、遺伝子レベルで感じるのかな。
ところで、Kちゃんや私が「JAYカワイー」と言うと、GZOUのSさんなどは「あれのどこがカワイイのか、ちっとも分からん。ただのハゲじゃないか!」とさんざん。一応、「えーカワイーじゃないかー」と反論するが、私らだって、冷静な判断力と審美眼をもってすれば、彼が可愛くないことは分かっているのだ。美男ではない。笑顔がまぶしいというタイプでもない。ではどういうところがカワイイのかと言うと、ズバリ、「スネ顔」。というか、「憂い顔」。特にギター弾きながら歌う時の、伏し目がちで切なげな表情と、下がった口角が、心の琴線に触れるのだ。そう、落ち込んで悔しそうな顔で懸命に涙をこらえて俯いている小学生の男の子みたいに。あんな息子欲しー。はあ。また母性愛ですか!
2006年5月19日 (金)
黒い腕、黒い顔
月曜日、月一回開かれる千葉県人会に出席するため、会社を出てタクシーを拾った。真夏のように照りつける太陽は、6時半を過ぎてもまだその光を弱めない。昼の名残の太陽は、まだ西の空で赤々と燃え、沈むそぶりも見せない。熱風がタクシーの窓から吹き込んでくる。
タクシーは朝陽北路を左折し、東三環へと進む。右手には3階建てのプレハブ。ふと見上げると、3階の窓から、上半身裸の男が、その日焼けした黒い腕を外に垂らして、三環を見下ろしていた。
三号環状道路の地下では今、地下鉄の工事が進んでいる。プレハブはつまり、飯場(はんば)だ。飯場なんていう言葉を、ずいぶん長いこと忘れていた。プレハブには地方からの出稼ぎ労働者たちが住み込んでいる。一部屋にベッドがいくつ入っているのだろう。一人当たりの専有面積はたぶんカプセルホテル並みに違いない。
黒い腕の男は、窓際から北京の交通の大動脈を見下ろして、何を思っているのだろう。一日の仕事を終え、家路につく都会の人々を、どんな思いで見つめているのだろう。
タクシーは黒い腕の男を残して、東三環を北上する。長虹橋の交差点にさしかかり、信号待ちで停車。右折車線の右側には、同じように信号待ちをする自転車の群れ。タクシーのすぐ隣に、荷台つきの三輪車が停まった。荷台には麻袋や段ボール箱に鉄くずが入っている。
と、三輪車を漕いでいた男が、側道と車道を遮る柵をまたいだ。そしてタクシーの前に停まったバスの下から、何かを拾い上げ、また柵を超えて戻っていく。三輪車まで戻ると、手に持った物を荷台に放り投げた。黒く日焼けした顔に、満足げな表情が浮かぶ。
鉄くず拾いが、彼の生業なのだ。車道に何か鉄くずが落ちていたのだろう。再び三輪車にまたがって信号を見つめる。その背中は、安物の薄いTシャツに肩胛骨の形が浮き出ていた。日盛りの街、三輪車でどれほどの道のりを漕いでまわるのだろう。信号が青に変わった。黒い顔の男を残して、タクシーは右へと曲がる。
黒い腕の男と、黒い顔の男は、一日働いていったいいくらの稼ぎになるのだろう。働いた金で、家族は養えるのだろうか。少しくらいは自分の楽しみに使う分もあるのだろうか。西に傾いた夕日を背に、胸がつまった。
タクシーは朝陽公園前で左へと方向を変える。私はある日本料理屋の前でタクシーを降りた。県人会の会費は女性が100元、男性200元。ほんの2時間で100元を使い切る私に、胸をつまらせる資格なんて、本当はないのかもしれない。
2006年5月15日 (月)
チベットな午後
14日(日)の午後、中央民族大学にて、『静静的嘛呢石』(直訳:静かなるマニ石)鑑賞。チベット族の友人からお誘いをいただき、お言葉に甘えて行ってきた。中央民族大学というのは、中国の少数民族を対象にした大学で、中国における少数民族の文化、言語の最高学府。私を誘ってくれた友人は社会科学院のチベット文学研究者なのだが、今はこの大学の古代チベット文学の講座を聴講しているのだという。その友人が講堂前で「あの人、僕の同級生」と言うので見てみれば、そこにはチベット仏教独特の濃いエンジ色の法衣をまとったラマ僧。驚く私に、「故郷では住職さんらしいけどね。ここでは同級生。」と言って、愉快そうに笑った。
上映会場となったのはこの大学の講堂。入り口にはなんとも愛らしい少年僧のアップをあしらった横断幕が張られ、開演を待つチベット族の人々が集まっている。ここからして、もうすでにチベッタン・ワールドだ。
↑華やかな出で立ちの長髪クンも、チベット族ですよ。
この映画は、チベット族の映画監督の手になる作品。ちなみにマニ石とは、チベット仏教の真言(マントラ)を彫った石のこと。昨年撮影され、国内外で6つの賞を獲得したとかで、今回の上映会はそれを祝ってのものだった。だからなのか、映画の上映前には、チベット舞踊やら民族音楽やらのプログラムが用意されていた。最後には、「阿佳・高原紅組合」という名前のチベッタン・ポップス・ユニットまで登場し、会場は拍手喝采。スタイル抜群、容姿端麗(たぶん。遠くて見えなかったけど)、踊りも上手な3人娘。いわゆるポップス路線なんだけど、ところどころチベット民謡独特の長く伸びのいい高音歌唱法が使われていて、なんだか不思議な感じだった。しかしこのプログラム、一つ難点が・・・。司会がチベット語オンリーだったのだ。さすがに分かりません。
さて、すっかり盛り上がったところで映画上映開始。ところがここでも問題発生。映画は全編チベット語。中国語字幕はあるものの、映写位置が低すぎて字幕が見えん!頭を右に傾け、左に傾けして、なんとかかんとか鑑賞したけど、久々に劣悪な鑑賞環境だった。
物語の舞台は、青海省のあるチベット寺院。その寺院で修行に励む少年出家僧は、俗世とはまったく関係のない宗教世界で日々を送っていた。でもそこは遊びたい盛りの少年、俗世へのあこがれは断ち切れない。チベット新年で実家に里帰りした少年僧は、兄弟たちの生活を束の間体験する。兄たちが演じる民族演劇、兄の運転するオートバイ、弟が学校で勉強する中国語の教科書、実家でみんなが夢中になっている『西遊記』のVCD。なんやかんやと用事があってなかなか『西遊記』を見られない少年僧は、一計を案じる。「玄奘三蔵がインドへお経を取りに行くありがたい話だから、寺院の人たちにも見せたい。」こうして少年僧は、父の力を借りてテレビ、VCDプレーヤー、そして『西遊記』のソフトを寺に持ち込むが・・・
いやいや、少年僧役の子が可愛くって。半分見えない字幕をなんとか想像力で補いつつ悪戦苦闘していた私にとっては、ほんとに救世主でしたよ。
それにしても、少年は今となっては村でただひとりの出家僧。寺でひたすら経文を勉強する少年僧と、「中国語をマスターしたら都会に行けるんだ」と言う弟が、なんとも対照的だ。正直言って割を食った思いだろうに、この少年僧はそこをひがんだ感じがなくて、愛おしかった。子供だからもちろん遊びたいし、テレビドラマだって見たいし、孫悟空のお面だって欲しい。僧院に戻った少年僧は、VCDソフトを手に、自分たちの寝起きする部屋と生き仏の部屋の間を、何度も何度も往復して山道を駆けていく。その様は、さながら俗世との間を行ったり来たりしているようだ。大法会に遅刻して急いで身支度をする少年僧が、法衣を羽織った後に、孫悟空のお面を懐にしのばせる姿も、またいじらしい。還俗しちゃうのかな・・・。そうなっても、責められないよ、キミのこと。
しかし、講堂いっぱいのチベット族はなんだか圧巻だった。中央民族大学の学生さんと、北京の関連団体に勤めるチベット族の方たちが大集合したのだ。そしてまあ、チベッタンの皆さんの鑑賞態度が賑やかなこと。携帯電話こそあんまり鳴らなかったけど、フラッシュ撮影あり、おしゃべりあり。映画でも、とてもたわいのない場面で大爆笑していて、なんだか素朴で可愛らしい感じだった。あれ?おかしいな。もし漢民族だったら、こんな態度で映画観てたら、憤慨してたはずなのに、チベット族だとなんで「可愛い」になるんだ?私、少数民族のこと、えこひいきしてる?
2006年5月14日 (日)
鶏唐で飯が食えるか?
「いや、彼女ね、鶏の唐揚げでご飯が食べられないって言うんですよ。」
GZOUのカウンターで私の隣に座ったKさんが、彼の右隣に視線を向けて言った。話を振られた女性はNさん。Kさんの奥様だ。
「だって、唐揚げは酒のつまみでしょう?」
「ほら、ここがね、いつも意見が合わないんです。」
「唐揚げ頼んだ時点で、白いご飯はもう注文しない。チャーハンに変わる。」
Nさんによると、唐揚げは白いご飯とは合わないのだそうだ。
「いろいろおかず食べてるでしょう?さてご飯物となった時に彼女がチャーハン。で、初めて、あ、このおかずはダメだったんだって分かるんです。」とKさん。
そこから、白いご飯のおかずにならないもの話で盛り上がった。Nさん基準によると、唐揚げ×、おでん×、刺身×、あんかけ卵焼き(天津丼の上に乗っかってるヤツ)×、お好み焼き×、たこ焼き×。ちなみにトンカツは○。トンカツが○で鶏唐揚げが×っていうところが、なんともビミョーだけど。Kさん、お好み焼き×、たこ焼き×は分からないでもないが、他はちょっと理解に苦しむ。おでんは最後におつゆでご飯というのがあり得るので、まあ○。お店スタッフのSさんは、おでんは×、たこ焼きは×、あとはOK。私はお好み焼き×たこ焼き×以外はすべてOK。うちではおでん、立派に夕飯のおかずだし。
さて、話戻って鶏の唐揚げ。あくまでも鶏の唐揚げは酒のつまみ、白いご飯との組み合わせは考えられないと言い張るNさんに、Sさんから強力な反論が。
「唐揚げ+白いご飯はスタンダードですよ。唐揚げ弁当があるくらいですから!」
「おー!そうだよ!」これはKさん。
Nさん、若干弱気になって、
「ええ?でも唐揚げならやっぱりチャーハンに・・・」
そこにSさんがたたみかけた。
「いや、唐揚げ弁当、人気メニューですから!」
唐揚げ○派、一気に優位に。ただ、私自身、唐揚げ×はなんとなく分からないでもない。ちょっとご飯のおかずとしては、ぱさぱさしすぎてるかなあ。でも食べるけど。
ご飯のおかずとしては汁気があるかどうかが重要なのか?ご飯にしみこむからね。そこから話はさらに、カレーやどんぶりを食べる時にご飯と具を混ぜるか?に発展。Nさん、Kさんを指して
「だってこの人、ビビンバ混ぜないんですよお?」。
Kさん、なんとビビンバを注文してもスプーンで混ぜずにそのまま食べるのだと言う。
「ええっ?」
Sさんと私。ここではKさんが孤立した。でもKさん、
「だって、それぞれが独立しておいしいし。目玉焼きは目玉焼きとして楽しまないと。」
じゃあ、カレーは?
「あー混ぜカレーとか、信じられないですね。」
「わたしカレーとご飯混ぜちゃいますよー。だってご飯よごして食べるの好きだから。でもね、ほんのちょっと白いご飯も残しとく。白いままでも食べたいから。」
私は欲張りなのだ。でも、これは私が孤立。
めげずに次の話題を振ってみた。
「そう言えば、私の友だちに白いご飯がよごされるのは許せないっていう子がいて、でも明太子だけは例外なんだって。明太子は色がきれいだから許すって。」
Nさん、
「あ、明太子はつまみでもおかずでも大丈夫!」
どうやらこれは見解の一致を見た。
「でもご飯ですよとかダメ。」
「えー、ご飯進むじゃないですか。」とSさん。
「飯のとも系って、確かにご飯進むよね。私は“力のあるおかず”と呼んでるんだけどー。」
これは私。ここでは再びNさんが孤立。
「面白いですねこの話題。」
Sさんが、カウンターの中で声を弾ませた。GZOUの止まり木で、焼酎片手にご飯のおかず談義。こうして夜は更けていく。というか、明けていく。
↑明けました。
つけで飲む
生まれてはじめて、つけをした。言わずとしれたGZOUでのこと。そろそろ白波のボトルがなくなるな~とは思っていたのが、財布にお金を補充するのを忘れてしまったのだ。カウンターに座り、ボトルの残量を確認。うわ、やっぱ今日ぜったいなくなるわ。「今日新しいの入ると思うんだけど、お金ないの。」「いいですよ、つけときますから!」
つけで飲む。落語の主人公でもあるまいし、いい年した女が何をやってるんだか。でもその反面、ちょっと晴れがましいような、大人な気分。というか、単に飲んべえ?あー、おやぢ街道をまたさらに前進しただけ、とか言わないでね。
うちの父も、相当な大酒飲みだった。飲み屋からの帰り道、道ばたで大の字になって寝ていたこともあったと言う。近所の人から「旦那さん道で寝てたよ」と言われ、恥ずかしいやら腹立たしいやらで、母が涙をこらえながら迎えにいったのだそうだ。我が父ながらあきれてしまう。
栃木に引っ越してからは、周りは雑木林ばかりで自動販売機すらないようなへんぴな場所。父もさすがに外を飲み歩くことはなくなった。飲むのはもっぱら誰かの家か詰め所。父は牛舎の配属だったので、泊まり番があった。生き物相手の仕事は大変だ。病気も心配だし、何より夜中の出産に備えないといけない。動物の出産は深夜から明け方にかけてだから。その泊まり番のために、宿泊ができるような詰め所があり、そこが飲んべえのたまり場になっていたのだ。
小さい頃、父が泊まり番の日には、母が漕ぐ自転車に乗せてもらって、新聞紙に包んだお弁当を届けに行った。あの頃のお弁当箱はアルマイト製だった。保温のあまり効かないアルマイトのお弁当箱には、新聞紙の保温効果が欠かせなかった。お弁当の熱で温められた新聞紙の匂いを、今でも懐かしく思い出す。
詰め所に着くと、たいてはすっかり酒盛りが始まっている。まだほんの子供だった私も、一緒に飲んでいた父の同僚から、「おう弁当届けに来たのか。お利口さんだな。まあ飲め飲め」と、ビールくらいは飲まされていたようだ。話に聞くと、私の飲酒歴は1歳の時から始まっているという。
その父が、まだ成田に住んでいた頃は、市内にいくつか行きつけの店があったらしく、よくつけで飲んでいたらしい。母が後で払いに行っていたようだ。そんなことは飲んべえのすることだと、遠い話のように聞いていたが、まさか自分がするとは思わなんだ。蛙の子はやっぱりカエル。
その父も母も、今は故人。バーでつけで飲み朝帰りするいい年した独り身の娘を、あちらからどんな気持ちで眺めていることやら。部屋にしつらえたマイリトルお仏壇コーナーにお線香をあげて手を合わせ、深く反省する土曜の午後だった。次からはちゃんとお金持って行きます。いやいや、反省するとこ、違うから!
2006年5月 8日 (月)
宴のあとに
連休最終日の7日。GZOUのメンバーを招いて、自宅でコロッケパーティ。バイトの女の子2人に助っ人に来てもらい、牛肉コロッケ、明太子コロッケを手作り。その他にも、いんげんのXO醤あえ、ゆで落花生、豆ご飯を用意。さらに煮なます、わらびの甘酢漬け、かるかん、各種チーズなどの差し入れもあり、賑やかな食卓になった(残念ながら写真を撮りそびれてしまった・・・涙)。
我が家に遊びに来てくれたのは総勢7人。いやはや、集まりも集まったり。私も入れて8人で、手作りコロッケたらふく食って、ビール飲んで、白波飲んで、そしてテレビ観て、なんだかとてもまったり過ごした日曜の夜。気軽なひとり暮らし、お部屋で好きなことして過ごす時間をこよなく愛する私だけど、たまにはみんなに遊びに来てもらうのもいいもんだ。
GZOUのみんなは、お店の改装工事につきあって、お休みなのに昼間は出勤。一日現場監督して、6時くらいにやって来るという。さて、一日働いてきた彼らに何を食べてもらおうか。コロッケだけじゃ物足りないし、サラダにしようか、和え物にしようか、あれこれとメニューを考える時間もまた楽しい。まるで夏場のように暑かった午後、好きなCDを聴きながら、いんげんのスジを取り、豆をさやから出す。深爪した爪先がさやに負けて痛むけど、そんな下ごしらえの時間ですらも、また楽しい。
5時。助っ人隊到着。すぐさまコロッケ用じゃがいも担当さんとキャベツ千切り担当さんになってもらって、キッチンは一気に賑やかになった。今日は暑いし、もうビール飲んじゃおか?女3人、一足先にキッチンでビールの缶を開ける。二人とも現役大学生。ハッキリ言ってほぼ私の半分くらいの年齢だ。そんな年の離れた子たちとも、北京では普通にお友だちになれる。
10時半、コロッケ大会終了。連休も今日でおしまい。明日からはまた会社だ。改装なったGZOUも明日から営業開始。「じゃ、また明日!」彼らの言葉をホールに残して、エレベーターのドアが閉まる。はいわかりました、明日もお店に行きますよ。「またねー」と手を振って、ドアが閉まりきるのを見届け、そして踵を返した。
部屋に戻り、スリッパを元の場所にしまう。残った料理をタッパーや小皿に詰め替える。たくさん買ってしまった牛挽肉を小分けにしてフリージングする。いつもと少しだけ変えてあったテーブルと椅子のレイアウトを元に戻す。電話の位置を直す。パソコンや事務用品を覆っていたテーブルクロスを外す・・・。
宴のあと。いつもとは違う心の浮き立つ時間の指先と、いつもと変わらぬ穏やかな時間の指先とが、ほんのちょっとからみ合って、そしてやがて離れていくその瞬間。私はいつも、そのどちらの指先からも引っ張られて、どっちへ行ったらいいか分からないような、ほんのちょっと泣いてしまいそうな気持ちになる。
2006年5月 3日 (水)
安心できる場所
1日のバーベキューパーティ、お友達の車で連れて行ってもらったのだが、実はもう1人同乗者がいた。北京在住の香港人Y氏。映画のカメラマンをしている彼は今、北京で一人暮らし。2ヶ月に一度香港との間を行き来している。馬術倶楽部に行く前に、ピックアップのために彼のマンションに寄った。2年前に買ったというマンションは120平米ほどの広さ。白い壁、コンクリートでむら直し塗りを施しただけの床、メタリックな照明器具。内装はいたってシンプルだ。リビングには迷彩色のローソファーの他は目立った家具もなく、無機質なラックにオーディオ機器やプロジェクターが並べてあるだけ。窓にはカーテンもブラインドもかかっていない。窓際には私の背丈ほどもある大きな観葉植物が枝を広げている。まさに、インテリア雑誌の「都会の一人暮らしを謳歌するクリエイターの部屋」そのもの。床に直に置かれた中国茶用の道具で、器用に中国紅茶を煎れてくれた。
さて、くだんの馬術倶楽部は、北京市の中心部から車で小一時間の場所にある。葦溝で空港高速を下り、側道を温楡河方向へと車を走らせる。北京市内から首都空港の間に、「お、なかなか気持ちよさそうな川辺の風景」と思うような河が流れているでしょう?それが温楡河。その温楡河の手前で空港高速側道に別れを告げ、川沿いの道を東南へと向かう。道はまもなく舗装されていないガタボコ道に変わり、ふと車窓から外を眺めれば、羊を追う老人と少年。牧羊犬のつもりなのか、シェパードを従えている。道に沿って植えられた楊樹(ハコヤナギ属の木。ポプラに近い)の並木、薄紫の花を咲かせる桐の木、その足下に群生する花ダイコン。ソフトフォーカスをかければすぐにでも映画の回想シーンに使えるような、絵に描いたような田園風景・・・のどかだ。のどかすぎる。
2歳半から高校卒業までを、私は牧場で過ごした。栃木県にある宮内庁御料牧場。父がここの職員だった関係で、この牧場内の官舎に住んでいた。牧場内では馬や乳牛、羊、豚、鶏が飼育されていて、自転車をちょっと走らせれば、すぐに乳牛や羊の放牧地が目の前に広がる。小学校へは、馬の放牧地の横を通って毎日通学した。学校への行き帰りに馬の鼻面をなでたり、草をやったりすることも日常茶飯事。そんなところで、私は育った。
馬術倶楽部に着いて、私は思わずあんぐりと口を開けてしまった。だって、そっくりなのだ。並木で区画された牧草地、白い柵で囲まれた放牧地、厩舎、馬たちが土を踏む蹄の音、そこはかとなく漂う馬糞の匂いさえ懐かしい。
↑私の小学校時代の通学路・・・と言ってもいいくらいそっくり。
足下にはよもぎやぺんぺん草(「なずな」ですね)まで生えているではないか!思わずぺんぺん草を摘み取る。茎についた三角形の果実を、茎から離れないようにそっと下に引っ張ってだらりと垂らし、茎をくるくると回してみた。ぺんぺん草のでんでん太鼓。パラパラパラとかすかに果実があたる音が太鼓みたいで、子供の頃はいつまで飽きずにくるりくるりとやったものだった。まさか北京で、ぺんぺん草で遊べるとは思わなかった!一気に郷愁モード突入。私はほーっと息をついた。こんなにのんびりとした気分、本当に久しぶりだ。
乗馬にゴルフ、そしてバーベキューと盛りだくさんの夜も更けて、9時過ぎにはパーティもお開きとなった。三々五々、車で家路につく。温楡河沿いの砂埃舞うガタボコ道から空港高速側道へ、そして空港高速本道へ。五元橋をくぐり、大山子を通り過ぎ、やがて車は四元橋にさしかかる。大きく左へカーブする橋の向こうに、市中心部の摩天楼の明かりがくっきりと浮かび上がる。その時、助手席に乗っていた香港人Y氏が言った。「ああ、これで安心したよ~。」
――いつも土と緑と動物たちの匂いに囲まれていた牧場育ちの私、香港の摩天楼に囲まれて人混みの中で育ったY氏。ひとりひとり、「安心できる場所」の定義も違う。後部座席でそんな物思いに沈む私と車を運転する友達に手を振って、Y氏は夜のバー街へと消えていった。
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2006年4月26日 (水)
雪上加霜
ゆうべ、楽しく焼酎バーGZOUで飲んでいたはずが、気がついたら店のトイレとお友達になっていた。酒量が格別多かったわけじゃない(まあ少なくはなかったけど)し、体調が悪かったわけでもない。ほんとにふと気づいたら、トイレにいた。そして。となりのお客さんや店員さんたちの会話を切れ切れに聞きつつ、カウンターにつっぷして痛い首をあっちに向けこっちに向けして寝ること数時間。看板まで寝かせてもらい、お水やお茶も飲ませてもらい、それではとお会計をしてみると、いつの間にか新しい白波のボトルが入っていた。
同じ方向に帰る店員さんたちのタクシーに同乗し、家の前で落っことしてもらって、ようやく帰宅。まだまだむかつく胸をがまんしながら、ドアの前までたどり着き、バッグを探る――鍵が、ない。ドアの前にしゃがみこんで、バッグの中身をぜーんぶ並べてみても、やっぱりない。会社に忘れてきたのだ。これが早朝4時のこと。
まわらない頭を無理矢理カラリカラリとまわして考えた。会社の同僚に電話する→同僚の家まで行く→鍵を貸してもらう→会社まで行く→鍵を探す→家に帰る・・・。タクシーに3回も乗らないといけない。気が遠くなる道のりだ。それにこんな夜中に申し訳なさすぎるし。と逡巡することしばし。それでもやっぱり家のベッド恋しさが勝って、意を決して同僚の携帯に電話・・・出ない。そりゃそうだよね、明け方4時だもんね。
さてどうしよう。24時間営業のレストランにでも行く?・・・だめだ、無理そう。仕方ない。さっきまで一緒だった常連のお友達に電話。「どうしたんですかあ?大丈夫ですかあ?」「会社に鍵忘れて家に入れないの・・・」「じゃあ、ここ来ます?新源里のスナック。」ああ、スナックなのね・・・後ろで響くカラオケの音。しかし他に策なし。スナックに向かう。
スナックにつくと、カラオケで盛り上がるお友達ご一行に申し訳ないと思いつつも、そのままソファに倒れ込む。熟睡できるはずもなく、浅い眠りの沼を浮かんだり沈んだりしながら、ごろりごろりと寝返りを打って朝を待つ。ミスチルが、重い頭に響いた。
朝7時前。スナックを後にして、お友達の家に向かう。明け方のひんやりした空気が身にしみる。今朝の便で帰国するお友達は、帰宅してからシャワーを浴び、荷物を整えて空港に向かうという。ああ、申し訳ない。お家について来客用ベッドに横にならせてもらい、シャワーの音を聞きながらまた眠りの波に足をとられていく。朦朧とする意識の中で、スーツケースを引っ張って家を出ようとするお友達に、「ありがとう。気を付けて」と手を振った。
なんだか力が抜けて、すーっと深い眠りに落ちたかと思う間もなく、ガガ、ガガガと伝わってきたのは階下の内装工事の電気ドリル。ガガ、ガガガ、ガガガガガ。ガガ、ガガガ、ガガガガガ。空洞のような、それでいてどろりとした濁った液体が詰まっているような、重たい頭に反響するガガガガガ。
雪上加霜(xue3shang4jia1shuang1)。泣きっ面に蜂。
★K奈ちゃん、Sぷうさん、ごめんなさい。ありがとう。ああ、いい年して、何してんだか。
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2006年4月24日 (月)
カササギの橋
昨日の朝、鳥の声で目覚めた。「カササギ!今日はいいことあるかも。」幸せな気分で再び眼を閉じ、二度目の眠りの波に身を任せる。
カササギ。日本ではあまりなじみのない鳥だが、こちらでは雀やカラスと同じくらい身近な鳥だ。実際、カラス科の鳥なのだという。尾っぽが長く、体長は50cmほど。結構大振りな鳥だ。日本では佐賀の県鳥になっているが、生息地は佐賀に限られる。なんでも豊臣秀吉が朝鮮出兵の際につれかえったものが起源らしい。
カササギは中国語で「喜鵲」(xi3que4)と言う。こちらではとても縁起のいい鳥で、その鳴き声は喜び事の前兆といわれる。いつだったか、窓辺で鳥の鳴き声がしたのでカーテンを開けてみたら、カササギが2羽、パッと飛び立ち、隣のビルの屋上へと大きく弧を描いていった。中国人の同僚にその話をすると、「それはいい知らせ。2羽ってところが特にいいわよ。」中国では何事も対になっているのが好まれる。
2羽がミソなのには他にも理由がある。「カササギの橋」と聞いて、ああと思う向きもおありかもしれない。「鵲橋」(que4qiao2)、この橋は7月7日の夜、天の川にかかるのだ。そう、織女星が牽牛星の逢瀬を助けたのが、カササギ。群がって橋の形になって、織女を渡したのだという。「鵲橋相会」(que4qiao2xiang1hui4)という言葉もある。想い合うものどうしが久しぶりに会うという意味だ。もしや私にも出会いが???二度目の眠りについた時の幸せ気分の正体は、実はこれ。
そうして過ぎた一日。どうも私の前にはカササギの橋は現れなかったようで・・・
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2006年4月 6日 (木)
ろくなヤツはいない
「今しゃべってたのは日本語か?」タクシーの運転手が聞いてきた。「そうですよ。」
夕べ、日本から来た出張者のアテンドで夕食を共にした後、彼らをホテルに送り届け、同じタクシーでそのまま私も帰途につこうとした矢先のこと。どうも私のことを中国人の通訳だと思ったらしい。(こういう時、私はいつも複雑な気持ちになる。中国語レベルをほめてもらったと考えれば、手放しで「YATTA―」。だが、外見で判断されたとなると・・・)
「あいつらは何をやってるんだ?」「あいつら」とは、今タクシーを降りていった出張者、つまり日本人のことだ。「舞台芸術関係の人ですよ。」私は答える。数秒の沈黙。ビジネスマンだと思っていたのに、ちょっと当てが外れたのかな?すると、運転手は吐き捨てるように言った。「日本人にろくなヤツはいない。」(注:この時の出張者が具体的にどうこうという訳ではなく、日本人全般的にという意味での発言だと思う。この運転手は日本人全体が嫌いなのだという感じだった。)
こんな時、私はいつもどう反応していいか困ってしまう。そしていつも、曖昧に話題を打ち切り、その後はひたすら貝になる。我ながら情けないとは思う。でも、疲れているのに議論をかわす元気がないのも正直な気持ち。その実、心の中ではおおいに葛藤しているのだ。
①日本人だということを告白した上で、反論する。
「実は私も日本人なんです。日本人だっていろいろですよ。
いい人もいれば、悪い人もいます。中国人も同じでしょ?」
②あくまで中国人を装いつつも、いちおう反論する。
「えー、でも日本人にもいい人はいますよ・・・」
で、迷った結果が、①でも②でもない、曖昧にごまかし貝になる、だ。元気があって気が向けば、①に行くこともたまにはあるが、たいていは貝になってしまう。なんとも情けない限りだ。こうやって億劫がって、ここに踏み込んでいかないから、結局いつまでたっても私の心の中で国境が越えられないのかなあ。でも、この手の発言にあうたんびに全力でぶつかっていたら、消耗するだろうなあ。でも、そのぶつかり合いの中からしか、本当に分かり合うことはできないのかなあ。その勇気のない自分は、ホントは異文化の中で暮らす資格はないのかなあ。
・・・そうして堂々巡りし続ける私を乗せて、タクシーはいつも目的地に着いてしまうのだった。
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