「なんでないの?」
自宅のドアの前で、繰り返し、繰り返し、私はつぶやいていた。となりにいるのはS地蔵さん。一つずつ、私のバッグから荷物を取り出して、丁寧に探してくれる。しかし、やはりないものはない。
「なんでないの?」
まだ繰り返す私に、S地蔵さんは言った。
「はい、お店に帰りますよ。」
そうして私はタクシーでもと来た道を戻り、お店のベンチに横になる。
おかしい、どうしてないんだ?あれ以来お昼に持ち出すのはやめたから、会社に忘れてきたはずはない。朝だって、3回まわしてしっかり閉めて、抜いたことまでちゃんと確認した。最近鍵穴がちょっと斜めになってきていて、抜くのにちょっとコツがいるのだ。だから、抜いたことは覚えている。家を出た時は確かにちゃんと持っていた。なのに・・・。
帰りたいのに鍵がない。二度繰り返すなんてバカだ。
県人会でかなり飲み、結構できあがって焼酎バーに行き、そこでもしたたかに飲んだ。四人で並んでカウンターに腰掛けて、焼酎ついで、カンパーイ!とやったのは覚えている。でも、その後の記憶があやふやだ。気づいたら、お地蔵さん二人につれられて、家に向かう(というか、連れて行ってもらう)タクシーに乗っていた。そこから先の記憶もとぎれとぎれ。
*****
「あの日、私どんなだった?」
水曜の夜、おそるおそるお地蔵さんたちに尋ねてみる。
「入ってきた時から、だいぶ出来上がってましたよ。」
S地蔵さんが苦笑いしながら答える。うん。確かに一次会からだいぶ飛ばしてました。
「白波の瓶をこうやって持って、僕らについて、そのまま自分のにもついでましたよ。」
そう言われてみれば、そんなことをしたような記憶も。うっすらと。
「こりゃ、久しぶりにやばいな、と思いましたね。」
「来たぞー、来たぞーって感じだったよな。」
えーん。最近はよい子の3杯ペースだったのに。居残り貧乏も返上してたのに。
「お店出たの何時くらいだった?」
「そんなに遅くありませんでしたよ。2時ぐらいかな。」
「他の人は?」
「そんなに変わりませんでしたよ。ayaziさんも、服着て立ち上がってましたよ。」
「え?そうなの?」
全然覚えていない。
「二次会のお金って、Nさんが全部払ってくれたの?」
「だいたいはNさんが払って、残りを他の人で割ってましたよ。」
「え?じゃあ、私も払ったの?」
「はい。」
財布を出した覚えも、お金を払った覚えも、まったく、ない。でもよかった、払ってて。
「それで?」
「皆さん帰ってから、ここにつっぷしてました。」
T地蔵さんが、目の前のカウンターを顎で示した。
「寝ちゃったんだ・・・。」
「はい。」
破顔一笑。でも、その笑顔がイタイヨ。
「ここに戻って来てから、あそこの大型バスのとこでうずくまってましたよ。」
もちろん覚えていない。店でベンチに寝かせてもらったその時のことは、うっすら覚えている。
「タクシーの中で、S地蔵さんの肩を貸してもらって寝てたのは覚えてるけど・・・」
「高いですよ、僕の肩。」
あ、確かに。とっても気持ちよかったです。
「なで肩だから、寝やすいらしいですよ。」
はい、確かに。お代はいくらでしょう?
*****
時は戻って火曜の朝。ベンチの硬さで目が覚めた。
記憶の海からずるずると切れ端を引っ張り出して考える。えーと、鍵がなかったんだよね?でも、スペアキーが会社にあるはず。まずは会社に行かなきゃ。
ところが、朝一番出社の同僚Yさんはこの日風邪でお休み。早めに出社する他の社員は出張。残りの同僚はフレックス出社で11時にならないと出社しない。頼みの日本人の同僚にも電話がつながらない。これで、11時までは動けないことが決定。
カウンターでコーヒーを飲みながら、ひたすら時の経つのを待つ。ところがそこに、ちょっと苦手の威勢のいいお姉様がお友達を2人連れてご来店。店内に響き渡る声は、私の脳海にもよく響く。カウンターにつっぷしたいのをガマンして、なんとか持ちこたえること30分。お姉様方が去ると同時に、ふたたびカウンターにダウン。
11時。ようやく連絡がついて、同僚にキーがあるかをまず確認してもらう。
ところが、置いてあるはずの引き出しに、スペアキーが、ない。あーそっか。友達が泊まりに来たときに家に持って帰ってきて、そのままになってたんだった。忘れてた。
万事休す。
仕方ない。 解錠サービスに連絡するしかない。
店長地蔵さんに教えてもらった業者さんと連絡を取り、ふらつく足取りで自宅に戻る。
ところが、待てど暮らせど、解錠屋さんは来ない。なんと、マンションの場所が分からず、あさっての方向に行ってしまったと言う。ピリピリしながら道順を指示して電話を切り、エレベーターの電光表示を見つめながら、待つ。部屋のある階の番号を心に念じながら、待つ。待つ。待つ。待つ。
エレベーターに乗る人、下りる人。エレベーターホールにゆらゆらと立つ、血の気の引いた三十路女ひとり。不気味だ。
そうして待つこと30分近く。
「いやもう、分かりにくくて。」
と言い訳しながらやってきた解錠業者のお兄ちゃんは、「こんなもんで開くの?」というありふれたツールで、ものの数分で鍵を開けた。鍵開け代はしめて150元。
*****
「今度はお店に鍵おいといてください。」
「うん、預かっといて。」
「ぜひそうしてください。」
瞳に力を込めて、S地蔵さんが言った。
「僕らのためにも。」
はい。預けておきます。お地蔵さんたちの睡眠時間のためにも。